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2010年11月26日
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【古都散策方法 京都-その57】
京都の仏像拝観 [不空羂索観音]

 観音菩薩とは、観“世音”(衆生の声)の上、観“自在”(意のまま)ということらしい。上乗仏教であるから、菩薩は衆生を救う役割を担う。そんなことで、現世に於ける慈悲を現しているとの解説になるのだろうか。典拠の経典を読んだことがないのでわからない。
 まあ、よくわからない理由はそれだけでもない。
 観音菩薩像は種類が多岐に渡るし、ご利益の話ばかり多く、そのまま受け取るとなにがなんだか状態になりかねないのである。
 と言うことで、観音菩薩に関しては、自分なりに頭を整理してから拝観することをお勧めしたい。

 今回はそういうことで、どう頭を整理すべきか、ほんの取っ掛かり的なことについて、お話してみよう。前回は如意輪観音を取り上げたから、不空羂索観音でいこうか。ただ、この仏像は京都では広隆寺[>>>像の写真]にしかないようだし、後述するが、拝観をお勧めしようとは考えていない。

 さて、ここから本論。
 不空羂索観音という名前は誰でも知っている。ところが、京都でもこの仏像は珍しいことでわかるように、全国的に滅多に無い。奈良を除いてである。
 それなら、京都にある広隆寺の像ももっと注目されてもよさそうなものだが、そうはならない。旅行案内書の説明も通り一変な記載といったところで、言葉は悪いがお茶を濁すような感じ。

 どうしてか。
 それは、考えてみれば、すぐわかる。不空羂索観音といえば、東大寺法華堂(三月堂)の3.6mの巨大な仏像ときまっているからだ。
 この仏像、おそらく何回も拝観した人が多いだろう。しかし、多分、お馴染み感は生まれまい。お堂に入るとたちどころに違和感というか、威圧感というか、ただならないものを感じる。大仏拝観では感じない手のものだから、像が大きいからではない。独特な雰囲気を醸し出す仏像なのである。
 そのため、“観音様”の慈悲を感じることはえらく難しい。
 多臂という異型からくる違和感ではないかと考えがちだが、同じ多臂の如意輪観音の場合は、洗練された上品さを感じる位でそういうことではない。三月堂の仏像は、言ってみれば“怪”という気分に近いのである。
 お堂のなかは暗いので詳細はわからないので、写真集も眺めることになるが、そうすると、その原因がわかってくる。先ず驚かされるのが、宝石を配した冠の見事さ。光背の威光も素晴らしいの一語。写真の出来栄えにもよるが、迫力満点。
 さらに拡大写真をじっくり見続けると、“怪”感が膨らんできたりする。それは多分3眼だからだ。額の眼からくる強烈な視線が拝観者の心を抉っているような感覚に襲われたりするのである。
 そんな経験を味わうと、他の不空羂索観音像はかすんで見えてしまう。

 とはいえ、他の仏像がどのようなものか気にはなる。仏像は少ないとはいえ、奈良にはいくつか残っているし、奈良以外でも、広隆寺だけでなく、大宰府の観世音寺、香川の法蓮寺の像が知られているからだ。だが、奈良から外れると、相当違う像になってしまうようだ。
 もともと、“怪”感を与える3眼の由縁は、「不空羂索神変真言経」。にもかわらず、写真で見る限り、法蓮寺、広隆寺とも額の眼を欠いている。観世音寺は3眼らしいが、十一面観音。雰囲気が全く異なる。広隆寺の仏像は、背丈は高いが威圧感は皆無であり全体として柔らかムード。これは、名称は同じでも、全く違う像と見なすしかあるまい。
 それに、いずれも、宝石や七宝をちりばめた装身具を欠いている。不空羂索観音らしさはないと言えまいか。

 何故、そんなことにこだわるかといえば、3眼多臂と言えば、まず間違いなくヒンドゥー教の神様シヴァ神(世界を破壊し蘇らせる最高神)だからだ。蛇と水にからむ神であり、三月堂の巨大な仏像もそうしたセンスがあってこそのもの。
 観音菩薩とされているが、その実態は“大自在天”に近い。

 シヴァ神像の場合、腰には虎皮を巻くことになるそうだが、それが中国を経て、本邦では鹿皮を羽織る形になっているようだ。つまり、藤原氏の春日大社が鹿を神のお遣いとしているから、藤原氏の仏像とされたということのようだ。
 東大寺で重視しているのだから、密教的な仏像としては早い時代から存在していたのだろうが、鹿へのこだわり感があったため、信仰は広がらなかったのだろうか。

 ここらあたりも一度思いを巡らしておくことをお勧めしたい。
 東大寺は大仏で知られるが、一番重要な儀式は二月堂の「お水取り(修二会)」である。密教と土着の信仰が合体したとしか思えない形でずっと受け継がれている。このお堂のご本尊は絶対秘仏の十一面観音。
 そして、お隣の三月堂(法華堂)のご本尊が不空羂索観音。
 もうひとつ四月堂(三昧堂)がある。ご本尊は千手観音。
 大仏殿の東に位置する「山」に観音像が安置されいるということ。ここは観音信仰のお寺でもある。お堂配置の状況から見て、十一面→不空羂索→千手という流れで、仏像が広まったということを示していそうな気もする。(ちなみに、大仏殿の西側には阿弥陀堂と戒壇院が配置されている。)
 空海が雑密と呼んだのは、この観音信仰のことだろう。尚、真言宗では不空羂索観音を六観音には入れていない。
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