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■■■ 古代の都 [2018.12.22] ■■■
[番外-22] 墓制と「古事記」
(17:矛を考える)

副葬品"矛"の話[→]をしたので、小生が感じたことを書いておくことにした。こればかりはセンスの問題であり、分析ではなく、概念思考が愉しめる人向きだから、そのおつもりで。

"矛"というと、どうしても祇園祭が頭に浮かぶ。そのハイライトは"山鉾巡行"だからだ。都合9基の鉾と、23基の山が進む大行列である。おそらく、どの地でも見かける、お祭りの山車の起源だろう。ただ、ここでの矛は、その先に様々な形状の飾りがついているため、武器の行進という雰囲気は全く感じられない。行列の先頭は長刀鉾だから武器イメージゼロではないが。(松の木の"山"は後世に追加された。)

よく知られるように、869年、流行している疫病の原因たる怨霊を輝く鉾に集め、都の外に排除するために始まったとされる。当時は、神泉苑に国の数である66本が立ったとか。
祭りが盛んになり、山車が大型化し、乗車囃方集が編成され、それなりの豪華絢爛さを実現すべく町衆が頑張ったようである。(祇園精舎の守護神は本来はインドラIndra/帝釋天Śakra。感~院祇園社(八坂神社)の神はその特徴から見て、全く異なるとしか思えないが、全く気にしなかったようだ。伝承によれば、薬師如来の化身、牛頭天王が当初のの御祭神。その後、「備後風土記」逸文に登場する、全く由来が異なる、蘇民将来の神の武塔天神[=スサノオノミコト]と同一視されたと言われている。背景解説に出会ったことがないので、それ以上のことはわからない。)

ここから感じられるのは、矛のように、尖って光り輝くものに霊が降臨するという観念が広くいきわたっていた点。
そして、矛には、潜在的にそれをコントロール力があると見られていた点。

この感覚と、コオロコオロと潮から島を作るにあたって用いた矛を重層化させると、古代人の心が読めてくるような気がする。

すでに述べたが、塩の島を生み出した沼矛とは、海人の漁具たる銛と見て間違いない。漁具であっても、神器としての違和感はない。(ギリシア神話で海と地震を司るポセイドーンPoseidōnの長柄武器は三叉戟Tridentだが、銛そのもの。特別な力が備わっている器具と見られるのだから当然であろう。)

矛には三叉タイプがあるが、これは、ヒンドゥー教のシヴァŚiva神の化身大黒天Mahākāla[マハ=偉大 カーラ=死(黒@チベット)]が持つシャクティ神器の三叉戟Trishūlaで知られる。古い四臂形神像では三叉戟、棒、輪、索を持っており、矛の来歴はかなり古そう。ご存知のように、大黒天は日本で八千矛神である大国主命と習合したが、納得のいく選定である。(現代日本の図絵では、大黒様は小太りの微笑相二臂形で、米俵に乗り打出の小槌と大きな福袋を持ち、矛とは無縁の姿である。)
道教の行事で欠かせない法鐘"三清鈴"にも、三叉戟が入り込んでいる。部位名称は"劍"とされているが、三叉戟形状の手柄である。三清の象徴と言われ、"振動法鈴,神鬼咸欽"とか。矛と鐸の組み合わせを彷彿させる祭祀用具と言えよう。八千矛神も黄金に輝く矛を船上に立たせ、銅鐸の音とともに、で各地に進出したのではなからうか。

と言っても、インドの信仰や道教に於いての三叉戟と、日本における矛の位置付けとは全く異なる。矛型が神器と見なされているというだけが一致しているに過ぎない。
このことは、銅矛渡来時、それは神聖な祭器として紹介されたことを意味するのではないか。仏教や道教といった宗教確立以前のことであり、全く異なる信仰だが威力ある神器と見なされた筈である。
そこらから、銅矛は霊が宿る依代と見なされたのではなかろうか。矛は当初から一般武器として扱われなかった可能性もあろう。武器とはあくまでも刀ということで。短刀は長柄に取り付けて槍のように使っていたこともあり、矛を武器と考える必要もなかったろうし。

さて、そんな状況で、矛が、どうして特別扱いの依代になったかである。

黒潮海人の体質を考えれば、なんとなく想像がつく。

クルージングすればすぐわかるが、黒潮海人にとっては"月・星"ベースの航海などする気にならなかったろう。大陸とは違うのである。太平洋も玄界灘での呑気な航海などありえないからだ。穏やかな瀬戸海でも、陸地を目視しての航海が最適解なのは自明だし。そんな海人だが、漁撈専業で定着すれば、干満に繋がる"月"信仰も生まれる。しかし、「古事記」で取り上げている海人は最初から、河筋から陸上に進出した先駆者風情であり、すぐに定住化に踏み切った人達のようだから、月への信仰が重要視されることは考えにくい。
そうなると、その定着した場所のアイデンティテイとしては山しか考えられまい。その特徴は山並であるのは勿論だが、同時に、好みの小さな山とそこに存在する堅固な岩を特徴と考えるのは、極く自然な振る舞いだろう。
そんな感覚が生まれるのは、「山海経」を読んだからでもある。この書は、ある意味山系を解説した神話的な地誌の書である。地図が無い時代に各地と交流するためには、こうした地誌感覚は不可欠だったろう。言うまでもないが、それぞれの地は山名で呼ばれるのである。集落が小さいなら、その山も小さいのは当たり前。
→"酉陽雑俎的に山海経18巻を読む"

最初に開拓し定住に踏み切った海人とは、集落住人からしてみれば英雄中の英雄。そのモニュメントが山になるのは当然の流れ。
純海人の風習には風葬か水葬だったろうから、その山は当初は放置葬用の墓域だったのではないか。(九州南部には古代の集落墓はなさそうだし。)しかし、肉食獣が沢山棲む地域ではヒト肉味を覚えさせるのは危険であり、そのうち放置葬が集落墓となったのではないか。それは信仰が変わった訳ではなく、集落墓地に居る死霊は、ゆくゆくはアイデンティティのお山に行くと考えられただけだろう。そこは集落の祖が定めた神聖な地なのだから。特定の祭祀者だけが必要な時だけ入山する禁則地だった筈。
祭祀は、その山が望める特定の地が選ばれたに違いない。そこでは、山から霊を木柱や石柱に呼寄せ、共食宴会が行われただろう。もちろん社殿は必要ではない。
つまり、山は祖霊の地。しかし、それは儒教の宗族埋葬地や宗族廟とは概念が異なる。そこは、開拓した氏族の祖の山ではあるが、同時にその集落の鎮守様が皆と同居する神域でもあり、かつこの世の信仰者に命を授ける産土神でもあるからだ。

こうした状況を考えれば、黄金色に輝く銅矛の登場は、当然ながら、石柱や木柱を代替していくことになる。それはもともとの海人の力の源たる銛だし。

日本列島はモンスーン地域であり、雲は多く、落雷も少なくない。人々が畏れる神鳴りは日常茶飯事のような事象。
輝く矛を立てておけば、どのような現象が発生するかは言わずもがな。神の降臨を実感し、矛の前にひれ伏したたに違いないのである。

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