→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2021.1.4] ■■■ [3] 地方「風土記」には阿波国関連話 「古事記」を読んだところで、大宜都比売の話しかなく、多少の影響力があるのはわかるが、それ以上ではない。こうなると、「風土記」に頼るしかない。 「風土記」とは 713年の官命で各国が編纂した地誌を指す。 60も国があるのに、残存は、完本が1国のみで、残りは省略欠損を抱える4国しかない。ところが、「万葉集」を校定して読めるようにした、「万葉集註釈/仙覚抄」1269年全20巻10冊で、引用があるため、かなりの数の逸文を取り上げることができる。 惜しむらくは、仙覚がどのような気分で「風土記」の当該部分を引用したかはあくまでも想像で見るしか手がないこと。 但し、小生は、「風土記」は、「日本書紀」以上に、政権の都合を考慮に入れ、十二分に知恵を働かせて成立させたと考えるので、特に関心を寄せている訳ではない。 しかし、「古事記」の註としては、「日本書紀」だけでなく、「風土記」でどう取り上げられているのかは欲しいところだ。欠落、一書記載、異論、追加情報等々、があると理解の助けになるのは間違いない。公的見方との違いがあれば、太安万侶が何を伝えたいか考える上で大いに役にたつからだ。 だからといって、過度な註はこまる。両者をまぜこぜで読むようなことになりかねないからだ。 ということで、ここでは、阿波を考えるために、「風土記」の記載を参考にしてみたい。 先ずは他国の残存本から阿波圀の記載部分。 ○播磨国風土記 美嚢郡 志深の里 志深と號くる所以は、伊射報和氣命[17代履中天皇]、此の井に御食したまひし時、信深[蜆]の貝、御飯の筥の縁に遊び上りき。その時、勅りたまひしく"此の貝は、阿波の國の和那散に、我が食しし貝なる哉。"とのりたまひき。故、志深の里と號く。(安房海陽町宍喰と蜆の名産地出雲宍道湖の類似性を暗示する逸話のようにも思える。) ○出雲国風土記 大原郡 船岡山@大東町海潮南北の境 郡家の東北のかた一十九里一百八十歩なり。阿波枳閇委奈佐比古命、曳き來居ゑましし船、則ち此の山、是なり。故、船山といふ。 ○出雲国風土記 意宇郡 來待川 源は郡家の正西廾八里なる和奈佐山@來待東南隅より出で、西に流れて・・・ ⇒⛩和奈佐神社@松江宍道上来待和奈佐山(祭神:阿波枳閇和奈佐比古命) ⇒⛩船林神社@和奈佐神社南の船岡山(祭神:阿波枳閇委奈佐比古命) …阿波枳閇委奈佐比古命の由来情報は乏しい。 阿波国での信仰起源は以下のように見られているようだ。 [北部]粟国:粟忌部氏(天日鷲命) [南部]長国:長直(事代主系) 続いて、逸文「丹後風土記」。 ○古事記裏書・「元々集」巻第七 奈具社 丹後の國の風土記に曰はく、丹後の國丹後の郡。群家の西北隅の方に比治の里あり。此の里の比治山の頂に井あり。其の名を眞奈井と云ふ。今は既{旣]に沼となれり。此の井に天女八人降り來て水浴みき。時に老夫婦あり。其の名を和奈佐の老夫・和奈佐の老婦と曰ふ。・・・(老夫婦が天女の一人の衣装を隠し養女に。養女は酒造り巧者で、その酒は病気治癒の効能もあり、豊かになると、天女を家から追放。天女は嘆き慟哭。)・・・斯は、謂はゆる竹野の郡の奈具の社に座す豐宇賀能賣命なり。 註では、和奈佐は若狭に関係していそうと。 上記では、播磨国美嚢郡志深の里の井の話が目を引く。奇をてらって取り上げたとも思えないからだ。天皇が、以前に蜆を食したことを想い浮かべるだけのことだが、その地が阿波の和奈佐とされている。蜆の名産地でもなかろうし。コリャ、一体ナンナンダ。 逸文「阿波國風土記」で当たることになるが、ほんの少ししかないので、全部引用させていただこう。 (久富憲明[撰]:「阿波國風土記編輯雜纂」1839年があるらしく、ローカルな逸文が収集されていそうだが、調べていない。) 阿波の地名としてあがるのは、"奈佐"@海部穴喰海岸…海部川河口部那佐港@鞆浦大宮である。 と言っても、せいぜいが、ふ〜ん、程度の印象しか受けまい。 ●萬葉集註釈 巻第三 阿波國風土記に曰はく、奈佐の浦。奈佐と云ふ由は、その浦の波の音、止む時なし。依りて奈佐と云ふ。海部は波をば奈と云ふ。 (佐については記述が無い。) ⇒⛩和奈佐意富曾神社 ⇒大里八幡神社境内社[1605年移転:鞆浦大宮 ⇒海部海陽/海南大里松原])…大里古墳(横穴式石室の巨石墳)6世紀末 ⇒⛩〃@宮倉村羽ノ浦居内春日神社隣接地(祭神:和奈佐毘古命+和奈佐毘売命) ⇒[合祀]中庄八幡神社 ⇒[1910年合祀]羽浦神社 …場所的には[南部]長国:長直(事代主系)ということになる。 [北部]粟国:粟忌部氏(天日鷲命)ではない。 以下は奈佐と⛩は直接的な関連なき文。 ●萬葉集註釈 巻第七 阿波國風土記に曰はく、勝間井の冷水。此より出づ。勝間井と名づくる所以は、昔、倭健の天皇命、乃ち、大御櫛笥を忘れまたひしに依りて、勝間といふ。粟人は櫛笥をば勝間と云ふなり。井を穿りき。故、名と為す。 (勝間:徳島県阿波郡阿波町勝命…北方大俣@吉野川北岸 光耀山千手院観音寺@徳島市国府町に勝間の井あり。) ●萬葉集註釈 巻第二 中湖といふは、牟夜戸と與湖與の中に在るが故、中湖と名と為す。阿波國風土記に見えたり。 ●萬葉集註釈 巻第三 湖の字、訓ウシホ。不審なり。水門に使へることは、阿波國風土記に中湖・奥湖などにも用之たり。 事績がわからないので、なんとも言い難しだが、しっかりと天皇との関係があることは書いてあったようである。どの風土記もここは神経を使ったところだろう。 ●萬葉集註釈 卷第一 阿波國風土記にも 或は 大倭志紀彌豆垣宮大八島國知ろ所天皇[崇神天皇]の朝庭云ふ 或は 難波高津宮大八島國知ろ所天皇天皇[仁徳天皇]云ふ 或は 檜前伊富利野乃宮大八島國知ろ所天皇[宣化天皇]云ふ。 実は、もう一つあり、これが阿波国の地位理解の鍵を握るものとなっている。 ●萬葉集註釈 巻第三 阿波國風土記の如くは、天より降り下りたる山の大きなるは、阿波國に降り下りたるを、天の元[基]山と云、その山の砕けて、大和國に降りつきたるを、天の香具山と云ふとなん申。 トンデモない自称伝承譚を入れ込むものだと思ってしまうが、そうではないのだ。註が素晴らしいのである。 …大和国成立は風土記が成った後。従って、仙覚が原文を"倭⇒大和"に校訂したと考えるのが自然。 このことは、仙覚は、"倭⇒和⇒(2文字化)⇒大和"という流れなど思いもよらないことを意味している。 実は、これで、小生は一気に氷解した気になった。・・・二文字化の事典で、四国の名称だった豫は伊予国に引き継がれ、さらに大和が、伊[ヰ]国名は封印されて阿波になった。そして、その前身の一文字は粟となったと見るのが自然。ヰ国銘を引き継いだのは大和なのである。 突然、飛躍した勝手な理屈に思えるだろうが、そう思うのは、伊豫國風土記逸文があるから。 ○釋日本紀 巻七 天山 伊豫の國の風土記に曰はく、伊与の郡。群家より東北のかたに天山あり。天山と名づくる由は、倭に天加具山あり。天より天降りし時、二つに分れて、片端は倭の國に天降り、片端は此の土に天降りき。因りて天山と謂ふ、本なり。 仙覚はこちらは、"倭⇒大和"に校定しなかったので残ってしまったのである。もちろんのことだが、天加具山は大和の三山との註になっている。さらに、それを補強するために、阿波国の話はこちらを要記したものとの記載。 常識的に、隣の国の風土記の文章を要記するなどあり得まい。互いに張り合っているのだから、同じような話が入ることはあり得ても。 伊予国の山は温泉群石井村の孤立丘であるが、阿波国は確かではないからそう解釈するのかも知れないが、剣山あるいは麻殖郡山川町ノリト山に比定する説も存在するのだから。 普通に考えれば、2つに分かれた話が、伊予国と阿波国に存在するなら、この両国に分割と考えるのが筋では。「古事記」にしても、両国は同志的あるいは姉妹かも知れないのだからおかしなことではない。つまり、同じ倭国に属する隣国に分かれたと書いただけ。もちろん、理屈からすれば、倭国に属するどの国も該当する。「大和国」も倭国の一部である。 繰り返すが、和奈佐という地名は阿波国には無い。あるのは奈佐。他国は"和の奈佐"と呼んだのである。本来的には"伊の奈佐"のことと違うか。出雲国・播磨国・等々には、"伊の奈佐"から移って来た人々がいるのだから。それは海の民である海部氏でもある。 風土記の時代、すでに"伊"を"和"と記載されていたことになろう。 (参照) 秋本吉郎[校注]:「風土記:」日本古典文学大系〈第2〉岩波書店 1958年 (C) 2021 RandDManagement.com →HOME |