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■■■ 「古事記」解釈 [2021.1.10] ■■■
[9] 海人4面性理解が古代史解明の第一歩
ここでの4面とは、"筑紫"こと九州にある4國を指す。「古事記」流の言葉だが、これを理解して初めて古代の流れの全体像と言うか、海人が主導した時代の、ドライビングフォースがわかってくるのでは。

"海人に4流あり。"と見るだけの、単純なコンセプトと見るからである。📖神代篇は海人の縦横無尽の活躍記・・・
 筑紫ノ國+壱岐+対馬 …朝鮮半島〜日本海
 豐國+瀬戸海諸島
 肥ノ國+五島列島+男女諸島…対馬海流上流域(⇒九州山越え東岸)
 熊曾ノ國+南島…黒潮本流域

歴史を見るに、国家存立を考えれば、最重要なのは軍事技術で、それを支えるのがエネルギー・食糧。そして、他国を凌駕できる富の源泉。
従って、これを考慮すれば、太安万侶史観は読める筈。

ただ、その前に、海人としての4流の違いを確認しておく必要がある。決定的に違うのは、対象とする水域。
潮の流れから言えばそれぞれ桁違い。大型クルーズ船でも、その違いはすぐに実感できるほど。
 黒潮本流(西太平洋外海荒海)
 対馬海流上流域(黒潮分流と東支那海流合体)⇔大陸江南
 朝鮮半島〜日本海(島・半島伝い)
 瀬戸海(内海島伝い)
航法・操船技術も全く違えば、船の構造や大きさも全く異なるし、装備や水・食糧補給方法はそれぞれ独自にならざるを得まい。

超古代、直径数mの丸木船を用いたアウトリガーで荒れ狂う黒潮に乗って、南海から半漂流で渡来した民が日本列島に最初に到着した話を期待したいところだが、それを示唆する話は皆無。
ともあれ、現代の人間から見れば一番過酷そうなのが黒潮本流タイプ。今では、航法も船も想像がつかなくなってしまったが、古代から渡来者が存在したのだから驚異的。
一般に、南島では、余剰物蓄積は難しいが、小規模な村社会を作り上げることができさえすれば、適正人口を保つだけで、持続し易い環境と言えそう。従って、母系制部族社会が多く、屈強な長子は村からの離脱が当たり前。危険で困難な航海に出る人の数は結構多かった筈で、南九州に漂流者が渡来することはそう珍しいことでもなかったと思われる。
偶々の幸運とは言え、超人的能力が発揮できたのだから、その漂流経験を生かして南島に戻ろうと考える人がでておかしくない。そのように考えれば、学者に指摘されるまでもなく、南島黒潮ルートは古代から存在していたという言うべきでは。
ただ、そんな南島文化を考えると、国家創成は簡単なことではなかったろう。貝殻製道具製造や芋品種開発ができるようになって初めて国家観が生まれたと見てよかろう。
「古事記」では、4流のなかでは遅れて登場するが、それは、そんな感覚があったからかも。皇統では母方の祖であり、現代流呼称だと隼人(阿多/薩摩+大隅+多禰+甑島+日向)だろう。
真珠・貝殻製装飾品や護法螺貝・水字貝・子安貝、貝製製道具に圧倒的魅力があった時期があったことを意味していそうだ。(貝貨は使われなかったようだが。)

この黒潮ルートコンセプトだが、4面を示すために、日本列島太平洋岸のイメージで描いているが、対馬海流上流域ルートの肥ノ國や朝鮮半島に繋がっていた時期もあるから注意が必要である。現代は乾燥草原でしかない蒙古高原に森林があった頃のこと。・・・
 【遼河文明】@紀元前6200年〜
  〇竪穴式住居
  〇櫛文土器(尖底/丸底砲弾形)・・・バルト海沿岸〜フィンランド〜ボルガ川上流〜南シベリア〜バイカル湖周辺〜モンゴル高原〜遼東半島〜朝鮮半島〜西九州【曽畑式土器@鬼界カルデラ大噴火後】〜種子島〜屋久島〜沖縄
  (紅山文化)風水祭祀
  (興隆窪文化)玉製品[翡翠の龍]、琵琶形銅剣


一般に流布している古代史のお話では、海人と言えば、朝鮮半島〜日本海を航行した人々で、、北九州の民とされている。ここは黒潮域と違って、陸地有視航法が可能。晴天で穏やかであればという条件だが、逆に言えば、それ以外は出航しなかったと見てよかろう。
限定された季節の好天に恵まれる時分に一斉に出て行くことになろう。群船であれば、潮の流れもわかり易いから、順行なら視界もあり、そう難しいものではなかろう。(e.g.三瓶山/佐比売山⇒日御碕/杵築⇒大山/火神岳⇒丹後半島⇒敦賀半島⇒能登半島)とは言え、見立てを誤れば大半が海の藻屑となり果てる。逆行は、湾岸反流を見極めながらの沿岸伝いの航行となる。こちらのスキルは各地に蓄積されているから、それを繋ぎ合わせることができれば、そう難しくはないが、浜が少ない地域だから、海が荒れでもすれば一貫の終わりとなる。
このことは、海図的知識が頭に入っていて、天候と潮流を読める高度な能力を持つ海人が居れば、目的地への航海はさほど難しくないとも言えそう。このため、戦船や交易船建造が早くから進んだと見て間違いなさそう。
例えば、朝鮮半島の多島海沿いに進み、渤海湾横断というコースで船山列島を目指す航行にしても、途中の寄港地さえ用意できるなら1ヶ月程度で到着できると思われる。一方、日本海ルートは潮目さえ読むことができれば、漂流遭遇を前提としていれば、それほど難しいコースではなかろう。

一方、軽視されているのが、五島列島から大陸の江南を目指す航海ルート。こちらの場合、長期外洋に出るため、船も航法も違う。遣唐使の時代でさえ危険と見なされていたようだが、やむをえず挑戦せざるを得なかったようだ。そのため、例外的コースと考えられているようだが、小生は逆だと思う。
中華帝国では、古代から巨大構造船が建造されており、もっぱら河湖用とはいえ、外洋向転覆防止設計ができない筈もなく、島嶼の存在を知っていたのだから、外洋航海を避けるとはとうてい思えないからだ。黒潮本流に巻きこまれないように注意して就航すれば、どこかに漂着できるといった程度の目論みでも、この航路が採用されたと見る。遭難の多くは沿岸域での座礁と考えるからだが。

そして、もう一つが瀬戸海である。天候が比較的安定しており、内海なので、他と比べると圧倒的に穏やかな海である。しかし、干満で流れがクルクルと変化するので、数々の瀬戸があり、いずれも難所だったのは間違いない。そのため、潮待ちは必須であり、それを可能とする仕組みがあって、急流操作のスキルを高めることさえできれば、頻繁な定期的航路開設も可能だろう。
「古事記」の"国生み"がこの地域から始まっているのは、そのようなネットワーク構築は国家が生まれないと難しいという洞察力を示しているとも言えよう。

以上はあくまでも地理的条件にからむ表面的な話。

見るべきは、その航海で何を運んだか。ここは想像の世界に属するが、全国的に遺跡発掘がかなり進んだこともあり、当たらずとも遠からずのレベルで語れるのではなかろうか。

先ず、最古と思われる運搬物だが、黒曜石と見てよかろう。岩石を集落に運搬し、そこで加工していたようである。
生産地は限られており、「古事記」対象地域では隠岐、信州(霧ヶ峰)姫島@豐國の3ヶ所だが、"国生み"に登場してくるのだから、生産地を押さえた地場勢力が国らしき組織を樹立していたのだろう。それと運搬勢力がどの様に関与したのかはわからないが、そのずっと後とはいえ、"国譲り"で大國主が我子とする建御名方神@諏訪大社(≒猛水な潟)が登場するから察しはつく。・・・海人が諏訪湖に侵攻し、黒曜石時代からの土着神(御石神/ミシャクジ)を従えたようだから。
  📖モンスーン地域の山に生える針葉樹の代表
伝承では、この建御名方神は沼河比売の御子とされる。翡翠の産地@姫川/糸魚川の神であり、八千矛神/大国主の求婚に応じた姫でもある。その地と綿津見神との繋がりがあるかは判然としないものの、地名が高志/古志であり、大陸江南の"越"(文字使用以前だとすれば、コシと訓読みが使われる必然性はないが、経緯は不明。)と繋がりがあることを示唆しているそうだから、朝鮮半島〜日本海の海人勢力が関与していると見られている。
 <越>…出雲系を示す名称は多数。
  出雲神社@金沢出雲
  出雲神社@能登 羽咋志賀
  石井神社@出雲崎(ご祭神:大国主神)…佐渡往来地

ここで、見逃してならないのが、出雲の八千矛神という名称。実際、銅鉾が多量に出土しているから、一大生産地であったのは間違いない。その生産を支えたのが、大綿津見神の御子、宇都志日金析命/穂高見命(阿曇氏祖神)ということになろう。銅は武器や農耕用具としては不適な材だから、もっぱら祭祀用と見てよさそう。つまり、銅鉱はたいした量を必要としていなかったから、出雲辺りで需給バランスはとれていたということだろう。
  出雲 大社鷺浦〜十六島大歳…海底火山噴出物銅鉱石
中国山地で本格的に探鉱すれば、それほど難しくはなかっただろう。かなり後世ではあるが、古代銅山は存在していることだし。
  石見 津和野、美都@益田>
  長門 美祢美東長登@秋吉台麓…東大寺大仏銅供給地(最古級銅山)

長門〜石見では、銅だけなく鉄鉱石採取も行っていた可能性があろう。斐伊川上流も砂鉄から鉄器製造まで行っていたことは、銅剣で遠呂智の尾を割くと鉄剣に当たり銅刃破砕のシーンを彷彿させるシーン記載でわかる訳だし。
この場合、粗鉄生産用溶鉱炉は出雲奥山の深い谷地にあったと考えるのが自然。鉄溶解にはかなりの高温が必要なので、強風が連続して吹く地が選ばれた筈だから。
海人勢力としては、鉄釘が入手できれば、高性能な構造船建造が可能だから、鉄生産地との連携は勢力維持のために不可欠となる。当初はこのお蔭で出雲勢力は優位に立てたかも。
しかしながら、荒らされ尽くした後世とは違い、銅鉱や砂鉄は、その気になれば探し出すのはそう難しくないから、新興鉄生産地や朝鮮半島からの粗鉄輸入勢力の勃興に対抗できる力量を失うのは時間の問題ともいえよう。
「古事記」的見方なら、そううち、志賀海を拠点とする安曇一族が、鉱物資源運搬を牛耳るようになる。鉄の場合は、釘、武器、農具、と利用範囲が広く、需要は鰻登りだったろうから、朝鮮半島からのインゴットと国内産砂鉄運搬を一手に引き受けることになった筈。高度な製品でないなら、鉄器製造はそれぞれの地場でも可能だから。
ここらで、本格的連合王国樹立が始まったと見ることもできよう。本質的には鉄の取り合いだから、脆弱ではあるものの。
それは、綿津見三神と住吉三神が同時に登場するからだ。前者はいかにも、海神崇拝らしさがあるが、後者は船の心柱イメージが被る名称であり、普通に考えれば船団が滞留する湊の神と思われるからだ。船団は一気に出航し、次の船溜まを目指すことになり、ネットワークができていないと無理である。
運搬先は、吉備や淡路に拡大したと思われる。前者は、後背地を探せば銅はみつかるだろうから、もともと銅製品生産をしていた可能性が高く、鉄インゴットの加工を進める体制はあった筈。
一方、淡路だが、ここは出雲のように季節風依存でなく通年強風の地があっておかしくないから、溶鉱施設の最適地。従って、この地に、瀬戸海全体の需要に対応する一大コンプレックスが生まれておかしくない。連合王国の要でもあったろう。おそらく大和王家の直接支配地。長門の鉱石や朝鮮のインゴットに100%頼る必要もないから、ここまでは安曇の力は及ばなかったろう。
鉄製農具の登場は、間違いなく農地開拓や生産性の飛躍的向上をもたらしただろうから、狭い沖積平野で木製農具に頼っていた勢力との経済力の差は開いていくことになる。ここらが時代の転換点とも言えそう。

特に大和地区の王家は、瀬戸内だけを基盤にしている訳ではないから、力関係上、安曇勢力は組み込まれていくしか道はなかったろう。ただ、外洋の世界はもっぱら安曇勢力まかせになる。従って、その拠点たる北九州地域が栄えたのは間違いないだろう。
但し、その力の源泉は、"船"による交易と武力で、経済基盤自体は脆弱。海人を束ねる地位を得たといっても、移住型海人は独立性が高いし、地場漁師は必ずしも海に100%依存する必要もなく、安曇との紐帯を必要としている訳でもない。
それに大きな問題も浮上してきたろう。海部勢力は山部勢力との連合体制が組めないと破綻しかねないからだ。山部が管掌する森林資源は有限であり、エネルギー・建材:棺材需用があるなかで、良質な船材調達は次第に難しくなっていくのは自明だから。
技術的にも、日本海向きの船に集中していたから、発展性も乏しい。安曇勢力の軍船は、他の3領域では使い物にならなかったと見てよかろう。朝鮮半島出兵では主力と思われるが、南端部の船溜まり地を繋ぐ多島海的海域なら、地の利でそれなりに力を発揮できるが、そこから外れた海域に進出して、中華帝国が粋を極めていた大型構造船と海戦で勝負できる訳がない。ロジスティクス能力の差も桁違いだし。

こうして書いていくと、抜け落ちに気付かされる。"国生み"で、直接語られなかった阿波だが、どこに組み入れるべきかだ。地理的には淡路島の外側であり、木の国/紀伊國の隣という場所。しかも四国であり、瀬戸海海路は本州側なのでそこに含めてよいのかはよくわからないところ。
隠岐より前に国を創っていた可能性を示唆しているから、おそらく、その力の根源は辰砂と書いた。上記の話に組み込もうとすると、金印を授与された北九州安曇勢力が辰砂を献納していたから、繋がりがありそうにも思うが、そのような動きは見つからない。

そうなると、ここは、対馬海流上流域(黒潮分流と東支那海流合体)⇔大陸江南に関係しているのかも。
このルートは肥国日向地域への天孫降臨を意味している可能性もありそうだからだ。肥国は、北九州筑紫域とは一線を画していることは間違いなさそうだからだ。
江南から、島嶼に向かって出航すれば、五島列島に到達する可能性が高く、そこから島原半島・有明海や八代海へと進み上陸ということになる。山越え日向となる。
先進的な航海術と造船技術を持っていたからこそ可能な業。どうしてそこまでして、日本列島に向かったかといえば、不老不死薬を求めたから。これは、太安万侶が序文で言うところの道教一途の肝でもある。
日本列島は辰砂だらけというのが、江南の上層の人々の通念だったと考える訳である。始皇帝の時代にすでに、それは蓬莱の島として知られており、調達に動いたのはご存知の通り。
こうした動きが継続していたと考えるのが自然だろう。
その場合の渡航ルートは、船山列島まで沿岸流で北上し、そこから海流に乗って男女諸島当たりを目指すことになる。

高志は江南の越の渡来人色が濃いとすれば、こちらは呉ではないかとの安易な想定が生まれてもおかしくない。このルートこそ、本流という見立て。儒教系論者はそのように解釈しがち。
  日本始祖,吴太伯之胤也。[林羅山:「本朝通鑑」]
しかし、どうかネ〜、という印象は否めない。下記に示す系譜から見て、この定義では余りに漠とし過ぎているからだ。
それに、呉の末裔とされる連が存在していたようだが、影響力があった勢力には思えないし。
  序列837 本貫右京 氏族諸蕃漢 姓松野 連…吳王夫差之後 [「新撰姓氏錄」]

もともと「史記」自体が、江南の地に"周"の尊厳が浸透したとのストーリー以上ではなさそうだし。
○公叔祖類[前1192-前1158年]<周太公>

○古公亶父<周太王>
├┬┐
[先1]泰伯/太白…避居紋身斷髮<句吳>
[先2]仲雍/虞仲
│○季歴<周王季>─<周文王昌>─<周武王>

[先3]季簡
//
[先17]句卑

[先18]去齊

[1]寿夢/乘[前585-前561年]・・・<呉王>
├┬┬┬┐
[2]諸樊/遏[前560-前548年]
┼┼[3]餘祭[前547-前544年]
┼┼┼[4]餘昧[前543-前527年]
┼┼┼│○[5][前526-前515年]
┼┼┼○季子/季札
┼┼┼├┐
┼┼┼[6]闔閭/光[前514-前496年]
┼┼┼│○夫概/投楚
┼┼┼├┬┬┐
┼┼┼○太子終纍/公子波
┼┼┼┼[7]公子糾/夫差[前495-前473年]…滅亡
┼┼┼┼○公子山
┼┼┼┼
┼┼┼┼○太子友

ただ、辰砂を求めて日本列島に渡来した人々が江南出身であり、船山列島⇒五島列島⇒肥國というルートを採用したとの見方は、ポイントを突いていると思う。大陸南部での辰砂発見の経験をもとに、八代⇒上流地帯⇒山越え⇒日向と探索して行ったと思われるからだ。これこそ、「古事記」流の発想では。
河姆渡文化・馬家浜文化・良渚文化が興った長江デルタの稲作地帯の海人ではあるものの、辰砂探索という点では山人の素質も濃厚であり、海彦山彦の設定も見合っているし。

太安万侶は、おそらく太白の話もご存じ。しかし、儒教的な王位継承の観点ではなく、道教的な社会風土的観点で眺めたのではなかろうか。・・・
  入其俗,從其俗。 [「荘子」外篇 山木]
太安万侶が、「古事記」では、"武王"や"文王"といった中華帝国的命名を排除しているのは、そこらにあろう。神話を抹消し、個人の精神的レベルまで管理し尽くすことが最高の喜びである帝国と、雑炊的に多様な文化を併存させることからくる嬉しさを大切にすることで社会の一体性を保とうとの国の、風土上の大きな違いを知っていたのだと思う。
それは、多分にソグド的でもある。・・・
  故(入)國隨國,入鄉隨鄉,到蕃稟(裡)還立蕃家之名。 [「敦煌變文集新書」卷五 王昭君變文]
マ、精神的自由を愛したインテリと見なしているからそう考えるに過ぎないとも言えるが。・・・
莊周笑謂楚使者曰:
「千金,重利; 卿相,尊位也。子獨不見郊祭之犧牛乎。養食之數歲,衣以文繡,以入太廟。
當是之時,雖欲為孤豚,豈可得乎。子亟去,無污我。我寧游戲污瀆之中自快,無為有國者所羈,終身不仕,以快吾志焉。」

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