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■■■ 「古事記」解釈 [2021.1.27] ■■■
[26a] 道教について
道教は、どう見ても、中華帝国各地の土着信仰の寄せ集めたもの。それに、老子を接ぎ木した上に、儒教をベースとして取り入れているし、仏教的要素も散りばめられている。なんでもかんでも取り込んでいるため、どこに焦点を当てるかによって解説のトーンは大きく変わらざるを得ない。まさに、とらえどころがない宗教である。
そのためか、俗っぽい解説書が依拠している見方は、明代中期の道教信仰に入れあげた皇帝の時代につくりあげられたイメージに基づいている可能性が高い。そのような見方が道教の本質をとらえているのか、はなはだ疑問なところがある。

しかしながら、初期の道教を整理して検討するなど不可能に思える。なにが道教に当たるのか判別しかねるし、錯綜し過ぎているからだ。

そうなると、間違いを恐れず、道教をこんな宗教であると大胆に設定する必要があろう。そうでもしないと、太安万侶が序文で言うところの道教信仰の意味が読み取れないからだ。

思想基盤はあくまでも➊「易」。諸子百家の黎明期を牽引したのでは。・・・
大きな流れからすれば、霊媒(巫覡)によるお告げ口誦伝達から、卜占(亀甲岐拆)、さらに占筮@西周末〜春秋初期へとなろう。
  <伏羲>八卦⇒夏易⇒殷易⇒周易(文王)
  <始皇帝>卜筮書は焚書非対象⇒漢代研究推進

  「易傳」十翼+六十四卦…「易経」の基本原理(孔子の陰陽思想)解説集@戦国期
    天尊地卑,乾坤定矣。[系辞上傳 第一章]
    有天地,然后万物生焉。[周易 序卦傳上]
易は王の執り行う祭祀の中核儀式で始まった筈。その発祥地は、黄土高原最東で黄河北側の山西/晋 東南部に位置する高原盆地(東:太行山 西:太岳山 南:黄河南岸王屋山)ではなかろうか。その辺りに伝承が多いようだから。
  炎帝神農@羊頭山/高平
  女媧@太行山〜太岳山
  帝堯@長子/長治
  湯王・帝舜@陽城/晋城

初期は天水農業だったろうから、易の役割は大きかっただろうが、山麓灌漑農業になり祭祀形式は似ていても統治に果たす役割はかなりかわったと思われる。低湿地大規模灌漑農業になれば尚更といえよう。

ともあれ、占いとは、天命を知ることにあり、天との意思疎通を図る行為であり、それは王の使命でもある。
儒教推崇の、夏を滅ぼした商/殷[1]湯王/天乙@前1600年には祷雨譚(天大旱,五年不收,湯乃以身禱於桑林,・・・以身為犧牲,用祈福於上帝,)がある。[「呂氏春秋」卷九季秋紀第二篇順民]
・・・この時代、まず間違いなく、王=部族長。"国の大事は(祭)祀と戎[軍]"[「春秋左氏傳」]であり、王の第一義的使命は霊媒役としての祭祀者。中華帝国に於ける"君主の徳"とは、ここに由来しており、祭祀挙行を滞りなく行えることと同義。民衆の個々のレベルでの祭祀も、もちろん存在するもののの、それはほんの小事に過ぎず無視してかまわない。イデオロギーの眼鏡を外せば、当たり前の見方。
尚、すべてを族長に託し、その指示に全員が諾々と従うのは当たり前である。頻繁に行われる祭祀には供犠は不可欠であり、原則、連行してきた生き残り他部族の人身御供だからだ。箱庭のような島嶼環境に於ける部族抗争とは全く違っており、敗戦は、即、部族消滅を意味する。ここらが、宗族信仰の原点。この部族思想を肯定した上で、社会安定を図るのが儒教の合理主義と見ればよい。


儒教と同じで根は易で、その原理は"陰陽"と見る訳である。ただ、易と陰陽観だけでは宗教勢力として自立するまでにはなるまい。(ここで、注意すべきは、この時点での道教とは、あくまでも、帝・貴族を中心とした支配層信仰の「易」でしかない点。現代感覚だと、道教は民間宗派でいかにも土俗的。これに対して、儒教は天子宗派的イメージが形成されているが、前者は貴族が支持層で、後者は臣/御用人であるから、全く違っており注意を要する。)

「易」から発展し、支配層の不老長寿願望へ対応したことで、圧倒的な支持を獲得できたのは間違いなさそう。不死薬を東海に求める動きの記録がそれを裏付ける。➋相見と不死術に卓越した方士としての地位を確立したと言ってよいだろう。
  田齊[4]威王[在位 前356-前320年]
  田齊[5]宣王[在位 前319-前301年]…方士 鄒衍
  燕 昭王[在位 前312-前279年]…方士 正伯僑
  秦 始皇[在位 前247-前210年]…方士 徐福
  漢 武帝/劉徹[在位 前141-前87年]…方士 李少君


これは"神仙"伝説に由来した信仰であるが、それを呪術的に洗練することに成功したということで、道教発展のメルクマールと見てよさそう。
ただ、その信頼感醸成は、➌医薬処方にあると思われる。

もちろん、取って付けたように、不死薬の話が生まれたのではなく、王直属の実質的司祭者=巫覡として、➍巫術的祭祀儀典全般に係わっていたからだろう。古代信仰を受け継いだと言うことも可能であるが、部族神話に基づく各地の山川河岳等での祭祀の中央統制化を進めたということでもある。
基本は"万物有靈+霊魂不滅"。
  【自然神】"天地日月" 星(辰)君 雷公 電母 風伯 雨師 山師 河(川)神
  【部族トーテム/地場霊威】玄鳥 熊、虎 竜神(鰐) 花仙 槐樹・・・
  【鬼魂/死霊】
  【祖先】【賢人/教祖】

信仰としては、ここらが最古層なのは考古学の成果から見て、疑う余地はないが、道教を生みだしたと考えない方がよいと思う。徐々に取り込まれて行ったと見なすのである。
(北京原人化石が発見された周口店@北京の上方、竜骨山山頂の洞穴墓から18,000年前の新人化石人骨・石器・骨角器の副葬品が出土し、遺体には赤色顔料が撒かれていたと言われている。道教的検知からすれば"丹"ということだから、ここに原点ありとしがち。貝殻装飾品や精巧な針まで含まれており、出土してはいないが、糸も実用化されていたと見てよかろう。温暖湿潤な気候で酸性土壌のため、日本列島で同様な人骨化石が出土する可能性は極めて低いが、例外的に発見される場合がある。南島ではあるものの、白保竿根田原洞穴の人骨@石垣2万7千年前や、港川人@沖縄南河口約2万年前。一方、本州では、浜北人@浜松が約1万4000年〜1万8000年前とされている。日本列島には早くから人類が到達していたようである。)


以上は、いずれの信仰にしてもコンポーネントであり、個々の独立性が高く、統合観念に乏しい。そこに➎自然法則的思想を持ち込むと、すべてがその一部と化すから、一つの宗教として自立できるようになる。
(ここに官僚的ヒエラルキーを持ち込むから、列伝的に、添削された潤色後の主要神話だけが残されることになる。)

整理すると、道教は5つの流れで樹立された宗教ということになる。古代の"万物有靈+霊魂不滅"信仰に依拠しているが、その自然発展宗教ではないことにご注意されたい。・・・
  ➊【占卜/易断】巫覡
  ➋【相見(印・名・人)/風水(家・墓)】招吉避凶
  ➌【医術(健康維持+疾病治療)】処方剤 鍼灸 靈治
      (↑↓その後【養生】に繋がる。)
  ➍【自然崇拝(精気魄増強)】食餌 座法 修心 拳法 符咒
  ➎【生命宇宙観(自然法則)】気 陰陽/五行
   【修道+修真+修為+修養・・・】

早い話、現世利益を実現するための呪術の宗教。「山海経」に描かれる山信仰のような自然崇拝の古層に乗っかっているように映るが、その延長上で生まれた訳ではない。各地の地場信仰を活かしながら、方士の呪術期待に収斂させていったと考えるとわかり易い。当然ながら、古きも新しきも、ナンデモカンデモ取り込んでしまう。
それを官僚的ヒエラルキーにまとめ上げれば、自動的に教団が生まれることになる。
(言うまでもないが、体制迎合的な動きでもある。宗族第一主義が貫かれていて、皇帝独裁-官僚統制が個人精神の領域にまで踏み込んでくる社会だから、宗派として存在しようというなら、そのような姿勢を取らざるを得ないのである。この場合、反現政権の動きを反体制と誤解しやすいので注意を要する。有史、中華帝国に於ける"革命"とは、王朝交代でしかなく、上記の社会体制が変わった訳ではない。)

現実には、宗教として、教義が生まれたのは東漢時のようだ。
  漢 順帝/劉保[125-144年]代
  <張道陵
@蜀 鶴鳴山(四川大邑)>"天師道"…五斗米道/正一盟威道
(宮崇が干吉が得たとして朝廷に献上した170巻「太平清領書」が経典だが、残存は57巻。唐末期の閭丘方遠:「太平経鈔」が内容を示す。・・・陽-陰-中和 天-地-人 日-月-星 父-母-子 君-臣-民 道-徳-仁といった調和論風情で、いかにも儒教的中庸志向だが、太平を目指す救済論との解説が多い。言うまでもないが、これに、老子と周易の抄を合わせた3書のセットにしないと機能しない。)
宗派組織の観点では、正一宗(張道陵)後は、金代に全眞道[北宗](王重陽)、分派の南宗(張伯端)[唐代の呂洞賓の内丹色が濃い。]、眞大宗[老子的守気養神]、太一宗[星辰崇拝]が生まれた。
そして、南北朝期には"丹"ということで一世風靡。(上清宮@洛陽の時代であり、解説に登場してくる経典の「正一経」「太平洞経」が成立。)

道教は教祖については曖昧だが、教義が成立したのだから、存在していたのである。しかし、地域毎に様々な流派が一気に勃興したようだから、全土で道教一色化が進んでも、統一的教義の形成は難しかったのだろう。そうなると、教祖認定は難しい。
それはある意味当然のことでもある。陰陽観から、天帝という人格絶対神へと自動的に繋がる訳がなく、在来の信仰対象と天帝との位置関係の解釈がバラバラにならざるを得ないからだ。

そうなると、宇宙観の教祖が不可欠となり、老子/太上老君の起用に進んだのだろう。"道"を宇宙万物の根源とし、陰陽の発生を説明する唯一無二の思想と見なした訳だ。(洪元→混元→太初→太始→太素→混沌→・・・)
すでに経典は存在はしていたものの、南北朝期のこうした動きは、"教理の成立"とみてもよいのでは。

と言うことで、道教の①宗祖として老子が尊崇された筈だが、実態的には"天師道"時代の呪術(祝禱/禁呪/符醮)宗教なので、形而上の②"道"を神格化して最高神にするようになったようだ。
ここは曲者。黄帝@姫水(黄色土地域)という、中華帝国の象徴になぞらえているようなもので、この神の下での国教化を図ったとみることもできよう。(一般概念Taoismの神に映るが、実は、これこそ"中華民族"思想の粋。"漢民族"とは、民族概念には当てはまらず、天子に統治される漢語使用の人民という観念であるが、それとよく似ている。)
さらに、教義・経典類が整備され、体系化するために③宇宙神が創出されたようである。結果的に、この三清を道教の最高神とすることになったのだろう。六朝代ではないかと見られている。
   元始天尊/天宝君@玉清境:始青…③盤古的宇宙創造
   太上道君/靈宝天尊/靈宝君@上清境:元黄…②形而上の"道"だが、帝国の象徴
   太上老君/道コ天尊/神宝君@太清境:玄白…①[化身的]老子


ここまで磨かれると、鬼道と呼ばれた"天師道"のイメージは消え去ったといえるのでは。ただ、その魅力はあくまでも呪術であることは変わらぬが。
時系列的に見れば、三国時代末期になると、竹林七賢の話が出てくる。乱世を生み出した儒教への反感ムードが高まり、知識層に老荘思想が広がり、俗世から超越した談論/清談が流行し、道教的生き方への支持が集まったようだ。
そんな流れの思想を集約したのが、東晋代の葛洪:「抱朴子」であろう。天仙-地仙-尸解仙という仙人志向の書というイメージができあがっているが、天上の聖なる神の世界、地下の死者の鬼の世界、地上の人間世界という基本構造((1)神人-気 (2)大神人-天 (3)真人-地 (4)仙人-四時 (5)大道人-五行 (6)聖人-陰陽 (7)賢人-文書 (8)凡民-草木五穀 (9)奴婢-財貨)を固めた書と言ってよさそう。
ここから、教理の整備が本格化することになる。

そして、唐皇室宗族(李)は老子の後裔と主張し始め、道教は政治的に重用されるように。
玄宗[712-756年]代には、老子は"聖祖大道玄元皇帝"と称され、道観が全土に作られて行く。ほとんど道教国家化されたと言ってよいだろう。📖唐朝道教の変遷@「酉陽雑俎」の面白さ

その後も、北宋 真宗[997-1022年]代に広範な信仰を集めることになる。国外からの圧力に抗するため、国教として扱われるようになったということ。

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