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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.4.14 ■■■

唐朝道教の変遷

【壺史】[卷二]をこんな風に書いた。[→「壺と貝」]
「壺」と言えば普通はPot。ここでは道士の宇宙世界を現す。もっとも、壺中之天ということでよく使われる言葉であるから、意味はすぐにわかる。下記に引用するように、詩にはよく登場する。しかし、壺史という表現は耳にしたことがない。下手をすれば、オチョクリと見なされないから、わざわざ用いるような素っ頓狂はいないのだと思われる。
   「贈白道者」  [唐 李商隠・・・段成式と同時代人]
 十二楼前再拜辞,靈風正満碧桃枝。
 
壺中若是有天地,又向壺中傷別離。

しかし、道教の話としては、その直前に【玉格】[卷二]がある。今村与志雄はこちらは"道教の秘儀"と訳しているが、10名の"道士の逸話"も含まれており、読んでいる方から見ると、【壺史】との違いははなはだわかりにくい。

しかし、題名が題名であり、歴史を簡単に眺めることができるように編纂したようにも見える。一寸見には、とてもそうは思えないのだが。
そこで、そんな観点から、無理矢理にこの篇を掲載順に眺めてみることにした。ほぼ年代順と考えてよかろう。但し、一番最初は多分680年頃。

■武攸緒@則天期[690-705年]の人 [→「李王朝前期略史」]
武則天の係累だが、官に興味を持たずに、山岳隠遁修行に勤しんだ人。長安で官として生活もしたが、親類縁者や貴族とは一言も口をきかずに、山に帰ったという。そのお蔭で、則天一族抹殺から逃れることができた訳で、それこそが道教のご利益かも。
武攸緒,天後從子。年十四,潛於長安市中賣蔔,一處不過五六日。因徙升中嶽,遂隱居,服赤箭、伏苓。貴人王公所遺鹿裘、藤器,上積塵蘿,棄而不用。晩年肌肉始盡,目有紫光,晝見星月,又能辯數裏外語。安樂公主出降,上遣璽書召,令勉受國命,暫屈高標。至京,親貴候謁,寒之外,不交一言。封國公。及還山,敕學士賦詩送之。

■羅公遠@玄宗期[712-756年] [→「腐敗僧侶と弄道術批判」
玄宗は隠形の術に凝る。羅公遠に教わるが、実現せず。
多分、玄宗は処刑したと思われるが、その後何を見ても、その姿が出てきた感じがするし、間違った統治をしていると批判されている声が、空耳で聞こえるのだろう。
玄宗學隱形於羅公遠,或衣帶、或巾脚不能隱。
上詰之,公遠極言曰:
 “陛下未能脱天下,而以道為戲,若盡臣術,必懷璽入人家,將困於魚服也。”
玄宗怒,慢罵之。
公遠遂走入殿柱中,極疏上失。上愈怒,令易柱破之。
復大言於石中,乃易觀之。
明瑩,見公遠形在其中,長寸餘,
因碎為十數段,悉有公遠形。
上懼,謝焉,忽不復見。
後中使於蜀道見之,
公遠笑曰:“為我謝陛下。”

マ、上手に登りつめた道士であるようだ。もともと、李朝実現時から政治中枢に食い込むことを旨とする勢力でもあった訳で。
国家的な課題とか、長命健康維持の修行とはかけ離れた、道教が一種の遊びモードに突入していた状況に合わせて、天子との蜜月状態実現に全精力を注いでいたのである。なにせ、お月見の最中に、月に行ってみたくはないかと訊いたりするのだから。・・・
開元中,中秋望夜,時玄宗於宮中翫月。公遠奏曰:「陛下莫要至月中看否。」乃取杖,向空擲之,化為大橋,其色如銀,請玄宗同登。約行數十里,精光奪目,寒色侵人,遂至大城闕。公遠曰:「此月宮也。」見仙女數百,皆素練ェ衣,舞於廣庭。玄宗問曰:「此何曲也。曰:「霓裳羽衣也。」玄宗密記其聲調,遂回,却顧其橋,隨歩而滅。且召伶官,依其聲調作霓裳羽衣曲。[「太平広記」巻二十二 羅公遠]

和璞@724年至都
「穎陽書」著者ということで、第一人者とされたか。ともあれ、長安で大人気。
おそらく、占いが当たるということで。頂戴した予言をどう読むかはナントモ言い難しだが。
ただ、病については、信者にはプラセボ効果が出るから治癒した人も少なくなかろう。
和璞偏得黄老之道,善心算,作潁陽書疏,有叩奇,旋入空,或言有草,初未嘗睹。
 [1]
成式見山人鄭説,崔司馬者,寄居荊州,與有舊。崔病積年且死,心常恃於。崔一日覺臥室北墻有人鼾聲,命左右視之,都無所見。臥室之北,家人所居也。如此七日,鼾不已,墻忽透明,如一粟。問左右,復不見。經一日,穴大如盤,崔窺之,墻外乃野外耳,有數人荷鍬立於穴前。崔問之,皆雲:“真人處分開此,司馬厄重,倍費功力。”有頃,導五六,悉平幘朱衣,辟曰:“真人至。”見與中,白垂綬,執五明扇,侍衛數十,去穴數歩而止,謂崔曰:“公算盡,仆為公再三論,得延一紀,自此無若也。”言畢,壁如舊。旬日,病愈。
 [2]
又曾居終南,好道者多蔔築依之。崔曙年少,亦隨焉。伐薪汲泉,皆是名士。嘗謂其徒曰:“三五日有一異客,君等可為予一味也。”數日備諸水陸,遂張筵於一亭,戒無妄窺。衆皆閉戸,不敢謦下山延一客,長五尺,闊三尺,首居其半,緋衣ェ博,執象笏,其睫疏揮,色若削瓜,鼓髯大笑,吻角侵耳。與劇談,多非人間事故也。崔曙不耐,因走而過庭。客熟視,顧曰:“此非泰山老師乎?”應曰:“是。”客復曰:“更一轉,則失之千裏,可惜。”及暮而去。命崔曙,謂曰:“向客,上帝戲臣也。言太山老君師,頗記無?”崔垂泣言:“某實太山老師後身,不復憶,幼常聽先人言之。”
   「嵩山尋馮師不遇」 崔曙[n.a.-739年]・・・詩人である。
 青溪訪道凌煙曙,王子仙成已飛去。
 更値空山雷雨時,雲林薄暮歸何處。
進士になり官位を得るには、道士とお近づきになり修行するという手は、珍しいものではなくなっていたということでもあろう。

 [3]
太尉祈算終身之事,言:“若來由東南,止西北,祿命卒矣。降魄之處,非館非寺,非途非署。病起於魚,休於龜茲板。”後房自袁州除漢州,及罷歸,至州,舍紫極宮。適雇工治木,房怪其木理成形,問之,道士稱:“數月前,有賈客施數段龜茲板,今治為屠蘇也。”房始憶之言。有頃,刺史具邀,房嘆曰:“君神人也。”乃具白於刺史,且以龜茲板為托。其夕,病而終。
[696-763年]は肅宗期に宰相の任。(758年、杜甫が弁護し帝が激怒し左遷されたことでも知られる。)

■王皎@天寶[742-755年]
「時、将に、乱れんとす。」となにげなく言ったため、それを耳にした玄宗は脳をかち割る処刑を命じたようだ。安禄山の反乱開始は、その年の11月のこと。その前から兆候はあった訳で、流石の道士達も玄宗の提灯持ちではいられなくなり、常識的な言辞をはくようになったのであろう。
王皎先生善他術,於數未嘗言。天寶中,偶與客夜中露坐,指星月曰:“時將亂矣。”為鄰人所傳。時上春秋高,頗拘忌。其語為人所奏,上令密詔殺之。刑者其頭數十方死,因破其腦視之,腦骨厚一寸八分。皎光與達奚侍郎還往,及安、史平,皎忽杖至達奚家,方知異人也。

法言/乾祐[714-837年]
代宗が「通靈大師」号を贈ったとか。
天師名乾祐,峽中人。長六尺。手大尺余,毎揖人,手過胸前。臥常虚枕。
 [1]
晩年往往言將來事。常入州市,大言曰:“今夕當有八人過此,可善待之。”人不之悟。其夜火焚數百家,八人乃火字也。
 [2]
毎入山,虎群隨之。
 [3]
曾於江岸與弟子數十玩月,或曰:“此中竟何有?”笑曰:“可隨吾指觀。”弟子中兩人見月規半天,樓殿金闕滿焉。數息間,不復見。

狂道士/灰袋(天師弟子)
道士の生き神様化。
蜀有道士陽狂,俗號為灰袋,天師晩年弟子也。毎戒其徒:“勿欺此人。吾所不及之。”
 [1]
常大雪中,衣布褐入青城山,暮投蘭若,求僧寄宿,僧曰:“貧僧一衲而已,天寒如此,恐不能相活。”但言容一床足矣。至夜半,雪深風起,僧慮道者已死,就視之。去床數尺,氣蒸如炊,流汗袒寢,僧知其異人。未明,不辭而去。
 [2]
多住村落,毎住不逾信宿。曾病口瘡,不食數月,状若將死。人素神之,因為設道場。齋散,忽起,就謂衆人曰:“試窺吾口中有何物也。”乃張口如箕,五臟悉露,同類驚異作禮,問之,唯曰:“此足惡,此足惡。”後不知所終。成式見蜀郡郭采真尊師説也。

友人 權同休 雇者@元和[806-820年]
貴族やインテリ階層の隠遁願望の時代から、下僕が道士志向だったりする時代に。都市化が進んだということか。
秀才權同休友人,元和中落第,旅遊蘇湖間。遇疾貧窘,走使者本村野人,雇已一年矣。疾中思甘豆湯,令其取甘草,雇者久而不去,但具火湯水,秀才且意其怠於祗承。復見折樹枝盈握,仍再三搓之,微近火上,忽成甘草。秀才心大異之,且意必有道者。良久,取粗沙數,已成豆矣。及湯成,與甘豆無異,疾亦漸差。秀才謂曰:“余貧迫若此,無以寸歩。”因褫垢衣授之:“可以此少酒肉,予將會村老,丐少道路資也。”雇者微笑:“此固不足,某當營之。”乃斫一枯桑樹,成數筐,聚於盤上。哄之悉成牛肉。復汲數瓶水,頃之乃旨酒也。村老皆醉飽,獲束三千。秀才方漸,謝雇者曰:“某本驕雅,不識道者,今返請為仆。”雇者曰:“予固異人,有少失,謫於下賤,合役於秀才。若限未足,復須力於它人。請秀才勿變常,庶卒某事也。”秀才雖諾之,毎呼指,色上面,蹙蹙不安。雇者乃辭曰:“秀才若此,果妨某事也。”因説秀才修短窮達之數,且言萬物無不可化者,唯淤泥中朱漆筋及發,藥力不能化。因去,不知所之也。

■盧山人@寶暦[825-827年]
成式としては珍しく、この道士の所論は"奇怪"と見なしている。
今迄は、それなりの論理を感じさせる言動があったが、ついにそれを失ってしまった訳である。
寶暦中,荊州有盧山人,常販橈樸石灰,往來於白南草市,時時微露奇跡,人不之測。賈人趙元卿好事,將從之遊,乃頻市其所貨,設果茗,詐訪其息利之術。盧覺,竟謂曰:“觀子意,似不在所市,意有何也?”趙乃言:“竊知長者埋形隱コ,洞過蓍龜,願垂一言。”盧笑曰:“今且驗,君主人午時有非常之禍也,若是吾言當免。君可告之,將午,當有匠餅者負囊而至。囊中有錢二千余,而必非意相幹也。可閉關,戒妻孥勿輕應對。及午,必極罵,須盡家臨水避之。若爾,徒費三千四百錢也。”時趙停於百姓張家,即遽歸語之。張亦素神盧生,乃閉門伺也。欲午,果有人状如盧所言,叩門求糴,怒其不應,因足其戸,張重簀捍之。頃聚人數百,張乃自從門率妻孥回避。差午,其人乃去,行數百歩,忽蹶倒而死。其妻至,衆人具告其所為。妻痛切,乃號適張所,誣其夫死有因。官不能評,衆具言張閉戸逃避之状。識者謂張曰:“汝固無罪,可為其死。”張欣然從斷,其妻亦喜。及市ン就輿,正當三千四百文。因是,人赴之如市。盧不耐,竟潛逝。至復州界,維舟於陸奇秀才莊門。或語陸:“盧山人,非常人也。”陸乃謁。陸時將入京投相知,因請決疑,盧曰:“君今年不可動,憂旦夕禍作。君所居堂後有錢一С,覆以板,非君有也。錢主今始三歲,君慎勿用一錢,用必成禍。能從吾戒乎?”陸矍然謝之。及盧生去,水波未定,陸笑謂妻子曰:“盧生言如是,吾更何求乎。”乃命家童鍬其地,未數尺,果遇板,徹之,有巨甕,散錢滿焉。陸喜。其妻以裙運紉草貫之,將及一萬,兒女忽暴頭痛,不可忍。陸曰:“豈盧生言將征乎?”因奔馬追及,且謝違戒。盧生怒曰:“君用之必禍骨肉,骨肉與利輕重,君自度也。”棹舟去之不顧。陸馳歸,焉,兒女豁愈矣。盧生到復州,又常與數人閑行,途遇六七人,盛服?帶,酒氣逆鼻。盧生忽叱之曰:“汝等所為不悛,性命無幾!”其人悉羅拜塵中,曰:“不敢,不敢。”其侶訝之,盧曰:“此輩盡劫江賊也。”其異如此。趙元和言,盧生状貌,老少不常,亦不常見其飲食。嘗語趙生曰:“世間刺客隱形者不少,道者得隱形術,能不試,二十年可易形,名曰脱離。後二十年,名籍於地仙矣。”又言:“刺客之死,屍亦不見”所論多奇怪,蓋神仙之流也。

■楊隱之@長慶[821-824年]
夜光塗料を塗った紙のお月様の登場と思われる。 [→「夜光芝」
ついに、ここまで来てしまったのである。
長慶初,山人楊隱之在州,常尋訪道者。有唐居士,土人謂百人。楊謁之,因留楊止宿。及夜,呼其女曰:“可將一下弦月子來。”其女遂帖月於壁上,如片紙耳。唐即起,祝之曰:“今夕有客,可賜光明。”言訖,一室朗若張燭。

■通りすがりの老人@一番最近のことか
百姓のレベルまで、丹薬の丸剤が普及しており、死にかけた状態で刺激を与える効果が喧伝されている状況。大衆化してしまい、滅茶苦茶。
南中有百姓行路遇風雨,與一老人同庇樹陰,其人偏坐敬讓之。雨止,老人遺其丹三丸,言有急事即服。余,妻暴病卒。數日,方憶老人丹事,乃毀齒灌之,微有暖氣,顏色如生。今死已四年矣,状如醉,爪甲亦長。其人至今輿以相隨,説者於四明見之矣。

上記の流れを見ればおわかりのように、極めて注意深い記述内容と言えよう。・・・<道士"張賓+焦子順"が切り拓いた時代>感を直接的に感じさせないように仕上げているということ。そのことが、逆に、実態を感じさせる仕掛けになっている。(「周武帝/宇文→隋文帝/楊堅→隋煬帝/楊広→唐高祖/李淵→唐太宗/李世民」という流れを裏から支えてきたのが、これらの道士達なのは、明らかだが、それには全く触れないので余計に目立つのである。・・・"天命"を言い出し、次期天子はこのお方という予言を振りまくことで、一気に権力掌握を実現するお手伝いをしてきたこと。)簡単に言えば、漢人の貴族とは言い難い李家を、老子の家系と見なすことで国教化を実現してきた歴史をそれとなく暗示しているのである。インターナショナルな仏教勢力の力で交易を通じた繁栄を実現した隋の基盤を受け継いではいるものの、ついに道教一色の時代に突入した様を記述している訳だ。これぞ、成式史観そのもの。

(参照)
趙道一修撰:「世真仙體道通鑑(五十三卷)」
(参考邦訳)
段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎 1」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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