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■■■ 「古事記」解釈 [2021.1.30] ■■■
[29] 古事記を読む前にインド観の点検が必要
「今昔物語集」は視野が狭く、3国観しか思いつかないといわんばかりの主張をよくみかける。日本は世界に冠たる国家とのイデオロギーを打ち出したいからとの見方なのだろう。もしも本当にそう感じるなら、それこそがイデオロギーに染まりきっており、その眼鏡からしかモノ事が見えなくなっているとしか思えない。
そうしたイデオロギーとは無縁だろうが、以下の湿潤アジア2分割感覚とよく似ている。📖玄奘の四風土論を参考にして欲しい
  🅳🀃非農耕
  🅳🀂非農耕
  🆆🀀東アジア農耕
  🆆🀁南アジア農耕

そもそも、中国とインドは全く異なると誰でも感じるところだが、それを規定するのは結構難しい。
両者ともに、その面積は欧州よりずっと広く、気候や地勢を纏めて、比較する訳にもいかないからだ。当然ながら、生活習慣が一様な訳もなく、地域文化は多様そのもの。もっとも、インド亜大陸の食はスパイス(カレー)と油(ギー)と規定することはできそうだが、それだけで皆がまとまるとも思えないが、どういう訳か一体感が醸成されてきたのだから驚異的。
風土論で語るなら、その根拠を示唆するような概念にしないとたいした意味はなかろう。乾燥 v.s. 湿潤の風土論を前提として、そこにインドを位置付けて説明できるならよいが、そうでないなら止めた方がよかろう。

何と言っても厄介なのが、東アジア v.s. 南アジアという見方。情緒的には全く文化が異なるから当然の見方と言えよう。しかし、湿潤地域の定住農耕経済圏とするなら、中国流とインド流の違いを指摘する必要に迫られる。ところが、中国では北麦南稲。インドではインダス麦ガンジス中下流稲だが、これは北側で、中央内陸部は商品作物の綿だ。それで、両者のなにが違うのか。簡単に説明できまい。

こんなつまらぬことに、拘るのは、冒頭でも触れたように、「今昔物語集」の影響が大きい。
本朝・震旦・天竺の基層文化が大きく異なることが指摘されており、しかも、それがポイントをついている。もしも、これにオアシスの西域ソグドも加えてくれていれば、と思わずにいられなかったほど。

と言うことで、ゴタゴタと偉そうに批判しているが、それはインドのとらえ方がえらく難しく、どうしてもフラストレーションが溜まるからでもある。
しかも、小生の観点で魅力的な本が見つからないとくるから尚更。
ここらの感覚、少しご説明しておこう。

初期仏教は偶像崇拝を避けてきたが、インド全体でそういった感覚が存在していたとは思えない。だからこそ、ガンダーラから、仏像が広がることになったのだろう。
しかし、この見方を漫然と受け入れるべきではないと思う。
「今昔物語集」編纂者はそこらに気付いていたようだが。

忘れてはならないのは、インドの信仰とはあくまでも叙事詩という点。要するに神話。
日本人の感覚では、叙事詩信仰と言われてもさっぱりピンとこないだろうが、インドに於ける尊像とは、あくまでも、神話の標章ということ。従って、叙事詩を思い起こさせる場で祈願してこそ意味がある訳で、ワンシーンに登場する一尊像のペラ紙1枚の印刷物を自室の壁に貼るだけでも、十分な有難味があるということ。静粛な環境に建造したお堂に素晴らしい出来栄えの尊像を安置では信仰の対象になりにくいのである。従って、インド美術として仏像を取り上げるのは拙い。
そもそも、尊像だけ取り上げること自体がインドの風土を無視しているのでは。叙事詩を感じるからこその信仰。建築物・壁画・安置像といったワンセットの人工物でイメージを形成しているに違いなく、一体不可分と見るべきだろう。

だからこそ、神話/叙事詩は生き続けて来たのだ。ベーダ時代からの豊富なソースがあるから、時々に再編されていくし、おそらく現在でも続いていると考えるべきだろう。口誦宗教とは、経典の文章を朗読するのとは本質的に違い、言葉もストーリーも揺らぎがあり、だからこそのライブのインパクトが生まれると言ってよいだろう。そのようにして、美しい言葉で語られる叙事詩に人々は心を揺さ振られ、信仰が深まって行くのである。

このような社会であるにもかかわらず、バラモン教⇒ヒンズー教という流れを頭に叩き込むのは考えもの。
確かに、仏教やイスラム教の存在を考えると、婆羅門差配社会時代ということでバラモン教を設定したくなるが、ヒンズー教となにも違うところはなく、まぎれもなき口誦神話/叙事詩教である。口誦専門家たる婆羅門がベーダばかりに注力していた時代と、他の人気がある叙事詩も扱うようになった時代という区分に過ぎまい。
インドラ派が少数派に転落し、シバ派、ヴィシュヌ派、ブラフマ派が伸びただけ。ただ、実態からいえば、これは極めて大雑把な分類である。神話の取り上げ方で、いくらでも違いは生まれるからだ。
どうあれ、バラモンのこの役割が変わった訳ではないし、どの派が主流になろうが、職業階層による分断社会に変動を発生させた訳ではないからだ。

ただ、日本人が間違いやすいのは、"大雑把"だと教理など無縁と考えてしまう点。それは、まったく逆で、必ず、その信仰を、まさに微に入り細に入り定義するバラモンが出てくる。日陰でただただ時間を潰す以外になにもできない環境だからではないかと思うが、徹底的な思索がなされていくのである。

ここまでくると、小生が、クドクドとインドの話をしている理由もお分りになるかも。

太安万侶が口誦に拘っているのは、このような天竺の状況を直観的に見抜いたのでは、と考えたのである。

換言すれば、こういうこと。・・・
震旦は、口誦文化を早々と否定し、漢文文化一色に染め上げることで、呪術と神話を切り離した。そして、神話/叙事詩の消滅にいち早く取り掛かった。だからこそ、中華帝国という観念をつくりあげることができたことになる。
本朝はその路線を、かなり遅れて踏襲し始めたことになる。伝承譚は漢字化され弊害化した神話しか持てない道教一色になる訳だ。それこそが、序文の指摘と読むこともできよう。その方向に進むのは、情勢を考慮すれば、国家存続上止むを得ないとはいえ、叙事詩くらいは残して置きたいもの。

おそらく、それだけではない。
様々な渡来人と、その文化の影響を受けた土着の人々が存在し、政治的にバランスをとりながら社会安定を図っている本朝は、この先どうなるのか大いに気になったに違いないからだ。
ちなみに、その中国だが、幻想の"漢民族"観が出来上がっていると言ってよいだろう。それを支えているのが史書である。(中華帝国の中核たる人民を漢民族と呼ぶという以上の定義はできない。)と言っても、中華帝国の支配は非漢民族の方が長いのである。しかし、結局のところ、支配民族も漢字言語を使用するしかなくなり、官僚管理社会で生活することになるので、そのうち多くが漢民族化してしまう。
このことを太安万侶は見通していた可能性があろう。江南も所詮は神話/叙事詩を消し去られた漢民族でしかないことに気付いて。

それでは、インドはどうなのか。

インド亜大陸は広大だが、おそらく人種的には雑種。飛び地的に存在する人種の地もあり、それは、脱アフリカの原始からの息吹を残しているのかも。
ただ、すでに述べたように、神話/叙事詩信仰の地であり、歴年とか史書にほとんど興味を覚えない人々の地ということでもあるから、歴史情報が乏しく、どうしてそうなっているのかはほとんどわからない。
そのため、現代の地域区分はもっぱら言語で行われることになるが、言語が異なっていても見かけよりずっと相互浸透が進んでいるようだ。基本語彙は違っていても、言語構造はほぼ同じなので、区別にたいした意味はないかも知れないのだ。驚くことに、ドラヴィダ語にしても、古メソポタミアやインダス文明期の言語や、ユーラシア北部言語との関連性も指摘されている位だ。
このことは、民族移動が激しかったことを示唆していよう。
(現在のインドの言語区分:北部アーリア印欧系、南部ドラヴィダ系、東部モン・クメール系[ムンダ]、北東部チベット・ビルマ系、西部イラン系[パシュトー, パミール]、島嶼アンダマン語[孤立語])

(アーリア系民族が北西から侵入し統治者となった時点をインド文化の原点として説明するのが一般的だが、実態からいえば統治というより、呑み込まれてしまったように映る。)

これを知ると、インドの神話/叙事詩信仰とは、様々な民族融合あるいは併存の鍵を握るものだったのではないかと思えてくる。全く別な神話がごちゃ混ぜになっていくことで、一体感が形成されていくことになる。そんなことが可能なのは、どのように混淆しようが、それを整理し細かく意味付けしていく知的作業に全身全霊を注ぐ人々と語り部が尊敬されていたからだと思われる。

こんなことも、太安万侶が気付いていたとしたら、はたして、本朝は今後どうなるのか考えたに違いない。

漢字は外交文書のみで、口誦文化を守り通してきたが、そうもいかずだ。
ついに歌集も文字化されたし、史書も作られることになった。天才的語り部、稗田阿礼も無冠であり、こうした役目も早晩なくなる。
自分ができることは、叙事詩を残すことではないか、と考えてもおかしくなかろう。それこそが、日本人的発想と思うからだが。

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