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■■■ 「古事記」解釈 [2021.1.30] ■■■
[29a] インド亜大陸社会をどう見るか
インド風土論について触れたが📖古事記を読む前にインド観の点検が必要、すでに自分の頭に植え付けられている社会の特徴で眺めてよいかにも、注意を払っておくべきだと思う。

特に、基本的認識がマルクスの著述を踏襲しているだけのことが多いので、チェックする必要があろう。その論理はシンプルそのもので、早く言えば、文化的に遅れているのは、ほとんど自給自足の農業に手工業という孤立経済の小集落からなる国だから、という見方。しかも、国家は灌漑のような土木事業で関与することで、影響力を行使しているという考え方。

小生は基本的に間違っていると思う。

自給自足で閉鎖経済に見えるのは、村落の生活が完璧な身分制分業で成り立っているから。
小さな村落でも、その階層は数十に達する。そのほとんどすべてが揃わないと村落は成り立たない仕組みでもあり、身分上下の交流を嫌悪しているといっても、日常的な相互依存の関係が成立しているので、隔離は不可能であり、現実には共存安定した社会が保たれている。そのため、表面的に見れば、自給自足経済に映る。生産手段は村落所有に見えることもあるが、それは特定の身分的職業集団の、村落内での地位保障を意味しているだけと考えた方が、本質に迫れると思う。

ここで見逃し易いのは、国家や村落の権力によって敷かれている強制力が付随する身分制度とは違う点。

そう書けばおわかりだと思うが、すべての村落が同じような"こと細かな"身分職業階層を持っているのが、一大特徴。全国レベルでは、その数は数千に達することになろう。支配層にとっては都合がよさそうな仕組みだが、国家が、そのような状況を積極的に創り出し、津々浦々の官僚を通じて管理するなど不可能に近い。自律的な階層運営がなされるからこそ、膨大な数になると考えるべきだろう。

国家は灌漑の土木工事で関与することで、村落を統括するといった見方も、インド農業全体で見れば特定の時代の限られた地域で発生した例外的事象を引いて強引に結論を持って来たとしか思えない。
インドの場合、国家の権力基盤維持という観点では、生産基盤の整備の寄与は限定的なのは明らか。
軍事勢力も身分的職業であるから、権力はそのなかで決まって行くだけのこと。反王権や身分を覆すような革命は発生しない社会なのだ。身分的職業階層構造のもとで、スムースな交易を実現するためには、"権力"は不可欠だから、そうならざるを得ない。各職業グループも、全国的共通基盤を保護してもらう機構が欲しいから、明示的な、王権-軍隊による国家樹立待望勢力である。

この様なインド的細分化身分社会で忘れてならないのは、婚姻関係は原則同職業という点。同一職業では、血族が多くなること必至で、職業=潜在的縁戚との観念ができあがっていると見てよかろう。従って、社会のなかで頼りになるのは、まずは同職業であって、決して地域ではない。ミクロでみると、村落毎の閉鎖経済と思ってしまうが、各職業で見れば十分に外に開かれている方に目を向けるべきだ。
だからこそ、雑種化が進んだのであり、乱立言語とされてはいるものの、決してバラバラな訳ではなく、滅茶苦茶な形で相互浸透が生まれてしまうのである。従って、村落共同体をインドの特徴と見なすのは誤解のもとと言わざるを得まい。

インドは大家族制度との解説も多いが、これも制度とは言い難いので注意が必要だ。職業的に大家族の方が安定している場合に、そうなるだけに過ぎまい。職業内で四分五裂すれば、バーゲニングパワーを失い身分低下必至であり、必然的流れだが、すべてに適用できる訳がない。そのリスクが低い職業なら、コストメリットが得られ易い核家族が多くなる筈だ。

・・・この辺りがわかると、矢鱈に財獲得を希求する体質が生まれて当然という気がしてくるではないか。そして、明るく楽しく生きることに精を出すことになろう。モラル宗教でなく、叙事詩的世界への没入可能な信仰になるのも自然な流れと言えそう。

換言すれば、身分による差別の断絶社会化を防止するために、神話を共有することで、精神的一体感を生み出しているとなろう。その基底には、生まれ変わりという輪廻観があり、それに基づいた生活になるという点がインド特有と言えそう。この観念は完璧に染み着いていそうで、日々の生活習慣もそれに結びついていると考えることもできそう。
食の禁忌もそこから生まれたと見ることもできる。もちろん、経済実態に合わせた規定ではあるものの、汚物を食べたり、ヒトの遺骸を食べている可能性がある魚肉への嫌悪観の元は輪廻にありそうだし、死後そのような動物になったり、肉食動物の餌に転生したくないなら、それなりの食習慣を守るべしとなろう。
殺生を避けるのも、死後被殺生側に転生しかねないという論理が根底にありそうだ。

ただ、あくまでも、現世の生活あっての後世への配慮であるから、自ずと対応はバラケル。
それを、中庸でまとめて制度化しようとはしないのがインド流。身分が余りに細分化されているため、"落としどころ"など見つかる訳もないし、強権が伴う制度でもないから、好き勝手にしておくしかないのだろう。従って、行きつく先は両極端。そうした存在を認めるしかないということ。

しかし、そう断言してしまうと、レッセフェールに映ってしまうが、それとは違うようだ。違いがいかに大きかろうと、それを纏めてしまう考え方を提起する職業が存在するからだ。もちろん、バラモン。この身分はいささか広い定義であり、祭祀階級と称されてはいるが、できる限り清浄な生活を旨とする職業と考えるべきだろう。ここだけ細分化分業が存在しない訳もなく、浄食提供者というバラモンが存在してもおかしくない。そのなかには、思索に全勢力を注ぎ込む職業もあり、バラバラの信仰を緻密な論理でまとめ上げることになる。特化した職業だから、その精緻さは比類なきものになろう。
その結果を踏まえて新たな叙事詩を編纂する職業もあろうし、さらにタッグを組む口誦役も居る筈。そうして新たな宗派が生まれていくのである。こうしたバラモンの活動は土着たりえず、全国ネットワーク化必至。感興を与える説教が行われれば、人々はその話に登場する地への参詣の衝動にかられることになろう。従って、閉鎖的な村落イメージはこうした実情にあっていないと言わざるを得ない。

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