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■■■ 「古事記」解釈 [2021.2.6] ■■■
[36] 武烈天皇紀とは180°異なる姿勢
の違いについて書いているが、その肝と言うべき箇所をとりあげておこう。

よく知られてはいるものの、議論の対象にされにくい箇所だ。

と言うのは、「日本書紀」は皇国賛美一色であると断定する人にとっては、その論旨に反するので都合が悪いから。

言うまでもないが、武烈天皇紀のこと。

一般的には、中国の歴史観を取り入れ、王朝末期に登場する暴君話にしたとされているが、実際は錯綜した記述になっており、万世一系を示すための創作という主張は、一理はあるものの余りに強引な解釈と見た方がよいと思う。・・・「記紀」として読むから、どうしてもそうなってしまうとも言えよう。

と言うのは、「古事記」にはほとんど何も書かれていないからだ。
  [25]小長谷若雀命は長谷之列木宮で統治。
  天下統治期間8年。
  無太子だったので、御子代として小長谷部を定めた。
  御陵は片岡之石坏岡。
   :
  天皇崩御にもかかわらず、日續之王見つからず。

記載は、たった、これだけ。
[24]意祁命([23]袁祁命/顕宗天皇の兄)/仁賢天皇 📖上中下巻の系譜上の切れ目
│  …御子7柱
└┬△春日大郎女([21]大長谷若健天皇/雄略天皇の御子)
├△高木郎女
├△財郎女
├△久須毘郎女
├△手白髪郎女…[26]天皇の皇后
├○[25]小長谷若雀命
└○真若王

「日本書紀」巻十六は長いので、少し端折って書いてみよう。[{残虐行為の訳}はWikiから引用。]
 長好刑理。法令分明。日晏坐朝、幽枉必達。
 斷獄得情。又、頻造諸惡。不修一善。
 凡諸酷刑、無不親覽。國内居人、咸皆震怖。

【億計天皇七年正月】
 立太子。
【億計天皇十一年八月】
 億計天皇崩御。
 (歌場があり、影媛との恋に破れ、恋敵の平群鮪殺害。)
【億計天皇十一年十二月】
 伴金村連は敵(恋敵父 平群真鳥 )を平定。
 政を太子に返上。尊号要請。
  「今億計天皇子、唯有陛下。億兆欣歸、曾無與二。
    又頼皇天翼戴、淨除凶黨。英略雄斷、以盛天威天祿。
    日本必有主。主日本者、非陛下而誰。
    伏願、陛下仰答靈祗、弘宣景命、光宅日本。」

 泊瀬の列城で儀式挙行し即位・遷都。
 伴金村は大連に。
【元年三月】…499年
 春日娘子を皇后に。
【二年秋九月】
  {妊婦の腹を裂いてその胎児を見た。}
【三年冬十月】
  {人の爪を抜いて、芋を掘らせた。}
【四年夏四月】
  {人の髪を抜いて木登りをさせ、木の根元を切り倒し、登らせた者を落とし殺して面白がった。}
 (百濟末多王無道、暴虐百姓。・・・)
【五年夏六月】
  {人を池の樋に入らせ、そこから流れ出る人を三つ刃の矛で刺し殺して喜んだ。}
【六年秋九月】
 旧例に依って御名代として小泊瀬舎人を置く。[勅]
【七年春二月】
  {人を木に登らせて、弓で射落として笑った。}
【八年春三月】
  {女を裸にして平板の上に座らせ、馬を引き出して女らの面前で馬に交尾させた。女の性器を調べ、潤っているもの(すなわち愛液が分泌されている者)は殺し、潤っていない者は、奴隷として召し上げた。これが楽しみであった。}
  穿池起苑、以盛禽獸。而好田獵、走狗試馬。
  出入不時。不避大風甚雨。
  衣温而忘百姓之寒、食美而忘天下之飢。
  大進侏儒倡優、爲爛漫之樂、設奇偉之戲、縱靡々之聲。
  日夜常與宮人沈湎于酒、以錦繡爲席。衣以綾紈者衆。

【八年冬十二月】…506年
 列城宮で崩御。
<巻十七>
 八年冬十二月己亥、小泊瀬天皇崩。
 元無男女、可絶繼嗣。

漢籍を参照しているのは間違いなく、司馬遷:「史記」卷三殷本紀帝辛(殷紂王/帝辛[n.a.-前1046年])の有名な酒池肉林的な記載と言ってよいだろう。
  酒為池,縣肉為林,使男女裸相逐其閨C為長夜之飲。
  百姓怨望而諸侯有畔者,於是紂乃重刑辟,有炮格之法。

しかし、その一方で、正反対の明帝(後漢第2代皇帝[在位:57-75年])の特徴も。[范曄:「後漢書」398-445年 卷二顯宗孝明帝紀]
  【史論】明帝善刑理,法令分明。日晏坐朝,幽枉必達。
  内外無倖曲之私,在上無矜大之色。斷獄得情,・・・

そうなると、影媛との恋の後遺症で、精神的ダメージを受けて性格が変わってしまったとも思ったりして。
ところが、「古事記」を読んでいると、この恋話は前代天皇での話なのがわかる。
  歌垣で、菟田首一族の娘 大魚を巡って、
  夜明けまで、平群臣の祖 志毘[⇔鮪]と袁祁命が争った。
  翌朝、[24]意祁命と[23]袁祁命は志毘臣の家を兵で囲み殺害。

臣であるにもかかわらず、天皇のために軒が傾いており、宮の柴垣を燃やしてやるといった挑発的な言動をする歌垣シーンが描かれている。天皇から見れば、臣による革命の企てであるが、実態的には臣 v.s. 臣の、天皇を無視した権力闘争のようでもある。
太安万侶は、その辺りをよく見ていると言ってよさそう。

もっとも、「古事記」とは、皇国史観喧伝が第一義であるとの眼鏡を通して読めばそうは感じないだろうが。
そもそも、両書ともに、この天皇代で書こうとしているのは、皇統が切れる可能性があったが、それをなんとか、臣が防いだという事績だけなのは明らか。
両書ともに、"五世孫"という曖昧な記載で済ましており、その五世分の皇統譜は収録されていないのだから。
(学問上の追及でもないのに、皇統譜は改竄創作されているとの主張をよく見かけるが、それなら何故にこの部分は記載されていないのか理由を示す必要があろう。…"五世"にもなれば、子孫の数は膨大となる。傍系になれば、簡単な調査で系譜がわかるものではないから、常識的には当然のこと。但し、この部分の系譜は、「上宮記(逸文)」に記載されているという。…[15]凡牟都和希王―若野毛二俣王―大郎子/意富富等王―乎非王―汙斯王―[26]乎富等大公王)

【追記】 酒池肉林の故事は、一般には放蕩し放題の腐敗した王朝の末期症状とされることが多いが、単に、政策的に行き詰った当然の結果を文字化しただけとも言える。もともと、従属しない部族抹殺でテリトリー拡大を図ってきた国家であり、構造的には連合王国の首領でしかなく、絶対的な軍事力で統治している訳ではないから、どん詰まりはこうならざるを得ないのである。と言うのは、威光の根拠は祭祀だからだ。敵対部族の生き残りを連行してきて、大量に生贄にする儀式を頻繁に行っていたからだ。祭祀挙行のご利益が感じられなくなれば、連合王国は瓦解しかねないから、経済状況悪化が始まれば、生贄対象範囲を臣下や従属王に拡大するとか、大規模酒宴を繰り広げる以外に手はなかろう。

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