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■■■ 「古事記」解釈 [2021.2.8] ■■■
[38] 御陵記載が必須である意味
1〜33代天皇迄の宮の場所を眺めて、ザックリと統治実態を想定してみたが、御陵についても場所を確認はしてみたもののほとんど考えずにきた。
それが、「日本書紀」を一通り眺めてみて、その重要性に気付いた。
考えてみれば当たり前だが、現代の墓制の感覚から抜け切っていなかったせいもある。

と言っても、たいした気付きではないが。

「古事記」で前方後円墳御陵もついに最終か、と感慨を覚える部分でのこと。📖[時代区分:6] 26〜32代総ざらい
  [30]沼名倉太玉敷命 川内科長📖他田宮
  [31]橘豊日命 石寸掖上から科長中稜に📖池邊宮
  [32]長谷部若雀命 倉椅岡上📖倉橋柴垣宮
     《磯長谷古墳群@南河内 太子》
↓上ノ太子駅
└──┐┼┼┼┼┌┘
─○─────┘近鉄南大阪線
┼┼┼└┐
┼┼┼┼└┐
┼┼┼┼┼└┐R166:竹内街道
┼┼┼┼└┐ ←山田上ノ山古墳(円)◇36
┼┼┼┼┼└────────
┼┼┼┼┼┼┼┼ ←小野妹子墓
┼┼┼┼┼┼↑山田高塚古墳(方)=科長大稜◇33
┼┼┼┼↑春日向山古墳(方)=科長中稜◇31
↑太子西山古墳(前方後円)=川内科長◇30
◇32…宮地近辺に比定地。倉橋池の北東側 赤坂天王山古墳説も。(岡上イメージには合う。)


そこで、「日本書紀」の方だが、この様な記載。仏教信仰について書いてある有名なパートらしい。・・・
<卷第廿>
[30]---渟中倉太珠敷天皇 敏達天皇
天皇不信佛法而愛文史。 (御陵無記載)
十四年 天皇病彌留崩于大殿。
   穴穂部皇子欲取天下。發憤稱曰。何故事死王之庭。弗事生王之所也。
<卷第廿一>
[31]---橘豐日天皇 用明天皇
天皇信佛法尊神道 葬干磐余池上陵。
二年夏四月 橘豐日天皇崩。
[32]---泊瀬部天皇 崇峻天皇
四年夏四月壬子朔甲子 葬譯語田天皇於磯長陵是其妣皇后所葬之陵也。
五年 葬天皇于倉梯岡陵。

30代天皇は、あくまでも前方後円墳に拘ったのである。そして、その墓を護る軍勢が存在しているところを見ると、生前にそこまで準備しておいたと思われる。
継承した31代は、それを尊重したものの、ほぼ仏教徒だからずっと薄葬の方墳様式の御陵だ。
32代は、仏教信仰プロモーターと記載されてはいないが、当然、そうなるのだろう。注目すべきは、存命中に葬儀を行っているところ。30代の改葬との印象を与える部分だ。コレ、前方後円墳埋葬制度の最終的終了を宣言するための儀式が挙行されたのと違うか。
葬儀とは継承者が行うもの。天皇霊を葬儀で受け継ぐ観念があるからこそ、皇統護持の大きな意味が生まれる。従って、後世の勝手な改葬などもっての他。そうでなければ、これほど沢山の前方後円墳が残っている筈があるまい。
このことは、31代は正式な祭祀を行う前に崩御したことになろう。尊神道と記載してあるところを見ると、強硬な反対派が存在していたことになろう。
結局のところ、改葬を兼ねた祭祀が行われた訳である。「古事記」では、改葬は31代としているが、仮埋葬地から天皇霊を受け継ぐ32代が正式御陵に埋葬しただけに映るが、どうも、30〜32代では、そのような過程で進んだのではなさそうである。

マ、そんなことを思ってしまうのは、明日香の石舞台古墳を見たからである。完璧に野晒しの、巨大石が露出している横穴式古墳だが、推定埋葬者は蘇我馬子。
もともと存在していた古墳群を潰して建造したのであろうが、薄葬とは無縁で、絶大な権力の所在を示す意図がアリアリ。そして、明らかに墓が暴かれており、懲罰といっても、そこには強烈な憎悪感情が存在していていると見てよいだろう。

そうした感情の大元は、この改葬にあると見てよいのでは。

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