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■■■ 「古事記」解釈 [2021.2.10] ■■■
[40] 哀本杼命新王朝論について
【続き📖歴史の古代化は、図って当然
推古天皇代の記録編纂での重要課題はおそらく2つ。
 〇系譜の古代化。
 〇継体天皇の皇統の正統性確認。
の後半。

「古事記」はサラリと流す。
天皇が崩御したものの、世継ぎがいないので、近淡海國から傍系の子孫に上京してもらい即位となった、というだけ。系譜には触れず。

継体天皇登場とは、新王朝樹立にほかならない、との説があるらしいが、正直なところ、これしか読んでいなかった小生にはさっぱりピンとこなかった。
それは、皇統断絶寸前という危機に直面し、主だった地方勢力から、どうにか係累を探し出して対応というストーリーを否定する見方としか思えないからだ。・・・5世も経てば、係累記載文書がある傍流が希少なのは当たり前だし、探し出した書にしても、信頼性が低いものだらけと見てよいだろう。その状況で、各氏族は、中央の要請に応えて、候補者リストを提出したのである。それぞれが、継承権を得ようと画策を始めるのは当然の動きと言えよう。ところが、この箇所は比喩的表現との主張がある訳だ。

しかし、この継承で、新しい政治基盤に移行したとはとうてい思えない。それなら、継承話だけでなく、それを示唆するなんらかの話があってしかるべきと思うからだ。
それに、これは、あくまでも前方後円墳時代のことと考えるからでもある。新天皇が、新しい信仰を掲げたとはとうてい思えないし、継体天皇関連地域に大型古墳など見当たらない。つまり、新王朝樹立の力がある勢力が存在しているとは思えないということ。

史書には、このような論が沢山つきまとう。そのなかから"妥当"と見なされた解釈が定説とされるが、ご存じのように、"定説"が変更されることは珍しくない。
従って、小生は、史書を読む気にならない。解説無しには手が出せないが、どの著者についても知識無しなので、どのような方針で臨んで解説している本なのか皆目わからないからだ。それなら、「日本史B」で充分。
もっとも、だからこそ史書読みは楽しいということだろうが。

余計なことを、ついつい書いてしまったが、太安万侶も、ほとんど触れていないとはいえ、傍系五世子孫を急遽継継承者にしたことについては大いに気になった筈。ここらを、どのように描いているか見ておくことにした。

系譜を再掲しておこう。
[24]意祁命([23]袁祁命/顕宗天皇の兄)/仁賢天皇
│  …御子7柱
└┬△春日大郎女([21]大長谷若健天皇/雄略天皇の御子)
├△高木郎女
├△財郎女
├△久須毘郎女
├△手白髪郎女───────┐↓[26]天皇の皇后
├○[25]小長谷若雀命/武烈天皇
└○真若王
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   [「上宮記」逸文の系譜]
   
[15]凡牟都和希王/応神天皇―若野毛二俣王―大郎子/意富富等王―乎非王―
汙斯王
↓[26]乎富等大公王
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[26]哀本杼命([15]品太王/応神天皇五世孫@近淡海國)/継体天皇
 …御子19王(男7女12)
└┬△手白髮命────────┘↑[24]天皇の御子
└─○[29]天國押波流岐廣庭命/欽明天皇
┼┼┼└┬△石比賣命(檜坰;天皇[28]の御子)
┼┼┼┼└─○[30]沼名倉太玉敷命/敏達天皇
┼┼┼└┬△岐多斯比賣(宗賀之稻目宿禰大臣之女)
┼┼┼┼├─○[31]橘之豐日命/用明天皇
┼┼┼┼└─△[33]豐御氣炊屋比賣命/推古天皇
┼┼┼└┬△小兄比賣(岐多志比賣命の姨)
┼┼┼┼└─○[32]長谷部若雀命/崇峻天皇
└┬△若比賣(三尾君[近江高島三尾]等祖)
┼┼┼┼…三尾君の祖:[11]伊久米伊理毘古伊佐知命/垂仁天皇の皇子 石衝別王)
└┬△目子郎女(尾張連等祖 凡連の妹)
├─○[27]廣國押建金日命/安閑天皇…皇子無
└─○[28]建小廣國押楯命/宣化天皇…皇子男三女二
└┬△麻組郎女(息長眞手王の女)
└─△佐佐宜郎女…伊勢神宮拝
└┬△K比賣(坂田大俣王之女)
└┬△倭比賣(三尾君[近江高島三尾]加多夫の妹)
└┬△阿倍之波延比賣
[15]品陀天皇之御子 若野毛二俣王の子 大郎子/意富富杼王者…三國君[越前坂井] 波多君[秦] 息長君[近江坂田(南:天野川)] 坂酒人君[近江坂田(北:長浜平野)] 山道君[越前足羽] 筑紫之米多君 布勢君[布勢立石神社(意富富柿王神)@長浜] 等之 祖也。

系譜を一瞥すれば、26代は手白髮女帝でもおかしくないように見える。従って、皇統断絶を避けるために、近淡海國から婿を迎えたと素直に解釈する方が説得力がありそうだ。
27〜28代は、多分、連れ子で、29代が即位可能な年代に成長するまでの中継ぎとしての即位。こうした継承については、太皇太后宮が暗然たる力を発揮していたと考えるのが自然だ。

26代の出自が示唆しているのは、尾張・美濃⇔近江坂田(琵琶湖東岸)⇔越前三国(良港:九頭竜川河口)と太平洋側と日本海側と結ぶ一大交易ルートの存在。(このルートが確立しているなら、わざわざ伊勢⇔大和⇔摂津から瀬戸内海路に頼る必然性に欠ける。大和⇔山城⇔近江(琵琶湖西岸)⇔若狭も不要だ。)その地域の天皇系譜ということで、近江坂田の氏族から迎えることになったのだろう。
中央と現地の二重構造統治になっていると見れば(中央に各地の氏族を住ませ、朝廷での合議で方針を決めて行く体制。)、継承者探しを地方で始めたりすれば、中央政治は機能していないとの批判一色になるだろうが、それ以上ではなかろう。もっとも、こうした仕組みだからこそ、地方勢力の支持を受けた皇子同士が皇位争奪を繰り広げることになる訳で、マッチポンプが得意な"大官"が現れれば、政治を取り仕切るようになってもおかしくない。
手白髮命は、そうした"大官"とタッグでも組んで、皇統護持に成功したというところかも。

一方、「日本書紀」を見ると、最初の天皇候補には逃げられたとされている。中央に行けば、皇位簒奪の動き必至であり、別な系譜の天皇擁立が始まって殺されたのではたまらぬといったところか。
<卷第十七>
[26]---男大跡天皇 繼體天皇
壬子、大伴金村大連議曰、方今絶無繼嗣。天下何所繋心。自古迄今、禍由斯起。
今足仲彦天皇五世孫倭彦王、在丹波國桑田郡。
請、試設兵仗、夾衞乘輿、就而奉迎、立爲人主。大臣大連等、一皆隨焉、奉迎如計。
於是、倭彦王、遙望迎兵、懼然失色。仍遁山壑、不知所詣。


天王即位がなされたからといって、中央の権力闘争が収まる理由は何も無い。どうやら皇統断絶は避けられたにすぎず、地方統制が弛緩していた可能性は高い。九州の反乱鎮圧話収載はそれを示しているように見える。もっとも、太安万侶としては、それを通じて、前方後円墳時代の、物部と大伴の地位と役割を示しておきたかっただけかも。・・・
  此御世 竺紫君石井 不從天皇之命而
  多無禮
  故 遣 物部荒甲之大連 大伴之金村連 二人
  而 殺石井也

ここは、一般的には、「日本書紀」に記載されている、朝鮮南部への出兵を阻んだ筑紫国造の"磐井の乱"として習う箇所。北九州勢力の力があなどれないと考えさせる部分だが、太安万侶は、そのような点は些末と見なしていることになろう。
古墳の状況からみて、この地域は、早くから大和朝廷の王権の傘下に入っており根本的対立が発生することは考えにくかったからだろう。📖山の辺の道時代(瀬戸海)

【上宮記(逸文)@「釈日本紀」の系譜】
○凡牟都和希王⇒品陀和気命/大鞆和気命/応神天皇
└┬△弟比売麻和加(洷俣那加都比古の娘)⇒息長真若中比売(咋俣長日子王の娘)
○若野毛二俣王⇒若沼毛二俣王>
└┬△母々恩己麻和加中比賣
┼┼├┬┬┐
┼┼○大郎子/意富々䓁王
┼┼│△踐坂大中比弥王
┼┼○田中比弥
┼┼┼┼○布遲波良己等布斯郎女
┼┼└┬△中斯知命
┼┼┼○乎非王
┼┼┼└┬△久留比賣命(牟義都國造 伊自牟良君の娘)
┼┼┼┼○汙斯王
┼┼┼┼└┬△布利比弥命@弥乎國高嶋宮
┼┼┼┼┼@伊波礼宮時代
┼┼┼┼┼○乎富䀀大公王⇒哀本杼命)/継体天皇

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