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■■■ 「古事記」解釈 [2021.2.11] ■■■
[41] 富士山を無視する理由
「古事記」は、駿河國と富士山については全く触れていない。倭建命は勅命で東征に赴いたにもかかわらず。
  和平 東方十二道之荒夫琉~ 及 摩都樓波奴人等

草那藝劒譚で有名な燒遺(焼津)も、相武國大沼/袁怒(相模川河岸段丘)とされている。常識的には、焼津は山容が一望できる駿河の遠江側に位置した地を指すので、おかしな話である。(「万葉集」巻三#284:焼津邊 吾去鹿齒 駿河奈流 阿倍乃市道尓 相之児等羽裳…春日藏首老"焼津のあたりに私が行ったところ 駿河の阿倍の衢で 偶然出逢った子よ あの子は今どうしていることだろうか。"@焼津市万葉歌碑)

ただ、太安万侶の気分、すこし分かりかけて来た気がする。小生の勝手な解釈に過ぎぬが、相模の駿河から離れた地域で袁怒という地名を捜し出したのではなかろうか。
小難しい話をしたいとか、想像を巡らして楽しもうという訳ではない。「古事記」を叙事詩として書いていれば、東国の扱いは確かに難しそうだと感じただけ。
富士山信仰を、国生みから始める「古事記」のストーリーに組み込むのは無理筋と言えないこともないからだ。

それは、こういうこと。
富士山と言えば、神阿多都比売/木花之佐久夜毘売としてしまうが、それは半分正しく、半分誤りと考えるのである。たとえ、これが浅間大神であっても、同じこと。
富士山信仰をはじめとして、東国の信仰は、人格神ではなかったと見ての話である。

そこ存在する、動かしようもない、その場に存在している自然そのものの内に、超能力を発揮する霊の存在を感じているのだから、擬人化できかねる訳で、自然現象の切り取った一瞬に、その霊の威力を見るに過ぎず、自然物をモニュメントとすることになっても、それが化身し移動することは無い。従って、拝殿はあっても本殿など有り得ないのである。

こうなると、叙事詩としての「古事記」の基本骨格である、人格神の国生みから始まるストーリーには、組み込みようがなかろう。

そのように考えるなら、倭建命の事績とは、大和王朝の支配地を東に拡大・確定したことを描いたと言うより、東の地の神を人格神に変えたことを意味していることになろう。
(東方の状況だが、100mを越す前期前方後円墳だけも、浅間山、芦間山@下館、亀ヶ森@会津、雷神山@名取がある。これらが東方征譚に対応していると見ることもできる。)📖山の辺の道時代(東国)
(伝⛩都々古和気神社跡/建鉾山遺跡@白河表郷高木も祭祀様式から見て関係が深いと考えられているようだ。)

それを伝えるための手は一つしかない。
〇誰でもが知る駿河湾岸から眺めた富士山には一切言及しない。
 いわば、注意の喚起。
〇偉大な荒ぶる神たる富士火山への信仰が広く存在していたことを示唆する。
 人格神化した火山叙事詩を埋め込む。

後者は、迦具土神の屍体の各部位から生まれた八神の山津見神火神譚を意味する。屍体から山の神々が化成した意義について、火山の爆発を意味するという説[@国学院大學古事記学センター神名データベース]は当たっていると思う。出所は南九州での大噴火の叙事詩ではないかと思うが、ここでは富士山の代替ということになる。ただ、こうした8神信仰が南九州の現地に残っている可能性は低かろう。
《頭》正鹿山津見神 坂益神社/板蓋神社@但馬養父大屋上山(御祭神:正勝山祇命)
《胸》淤縢山津見神
《腹》奧山津見神
《陰部》闇山津見神 黒島神社@讃岐苅田/観音寺池之尻(御祭神:闇山祇尊)
《左手》志芸山津見神 敷山神社@越前今立/春山(御祭神:志藝山津見神 大山祇神)
《右手》羽山津見神
《左足》原山津見神
《右足》戸山津見神

--- 富士山の歴史 ---
【最終氷期終了】
【噴火期】…約1万1千〜約8000年前(3,000年間)
  古富士山頂西側で噴火開始⇒溶岩大量噴出⇒新富士形成(現富士山山体)

【鎮静期】
【噴火期】…約4500〜約3200年年前(1,300年間)
【鎮静期】
  古富士山頂顕在化@新富士山頂東側

【崩壊期】…約2500〜2800年前
  風化した古富士山頂部大規模山体崩壊"御殿場岩雪崩"@2900年前

【山頂部最後の爆発的噴火】…2300年前
【散発的側火山噴火期】…2000年前〜現代
  溶岩流43回発生(長尾山, 宝永山)
  地震崩壊(・・・, 元弘地震@1331年, 濃尾地震@1891年)


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