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■■■ 「古事記」解釈 [2021.2.18] ■■■
[48] 大悪有徳天皇の魅力を余す所なく記載
[21]代大長谷若建命/雄略天皇は考古学的実在証拠を示せる最古の天皇。(稲荷山古墳@埼玉県・江田船山古墳@熊本県出土の剣)

兄弟、従兄弟、有力勢力の長、と次々と殺戮し、皇位を確立した現実主義者で、国策的にも、その路線で進んだようだ。
神権についてもその姿勢が貫かれており、自分の眼で確認していない抽象的"神"の存在を認めていない。しかも、"神"と認めても、対等な立場での対応。
そんなこともあってか、「日本書紀」巻十四では、大悪・有徳との世情の、評価状況が示されている。・・・
  "誤殺人衆。天下誹謗言。太惡天皇也"[雄略2年冬10月]
  "天皇射獵於葛城山。・・・現人之神。先稱王諱。・・・
   是時百姓咸言。
有徳天皇也。"[雄略4年春2月]
   ("有徳"表現に注意を喚起したのが丸山真男。
    儒教的コンセプトの"徳"ではなく、呪術的な力を意味していると。)


太安万侶の編纂方針は、この手の見方とは無縁。叙事詩として、どれだけ精神的に研ぎ澄まされているかで魅力度を測っていると言ってよいだろう。
おそらく、史書編纂の味気無さに辟易し、資料点検を通じて、生き生きした言葉に感情を揺すぶられたので、「古事記」編纂に踏み切ったと思われる。

この天皇の記載に力が入るのは、単なる暴虐者とは違って、自我を感じさせるところがあるからでもあろう。
仏教の因果応報事例集📖自業自得@今昔物語集の由来たる(薬師寺僧)景戒:「日本国現報善悪霊異記(日本霊異記)」の冒頭譚(#1捉雷緣)に雷神を畏れぬ雄略天皇の話が収載されているのが良い例だ。仏教とは無関係だし、因果の法の話でもないというのに。・・・
雄略天皇隨身の護衛武官(肺脯侍者)少子部栖軽が、婚合中と知らずに磐余宮寝所に参入してしまった。天皇は恥ずかしいので中断。すると、雷鳴。雷をお迎えするよう勅命を受け、栖軽は宮外へ。落ちて来た雷神を見つけ、神官に命じ、神輿で宮殿に運ばせた。天皇はそれを見て怖れ、供物を奉って返させた。【雷岡@少治田宮北地名譚】その後栖軽死去。天皇が、永立碑の墓をその地に造営させたので、雷立腹。碑文の柱を蹴り踏み付けたところ挟まって捕捉されてしまったが、天皇が放してやった。再び、碑文の柱を建てた。栖軽は、死しても忠信で雷神捕捉、と。【再度地名譚】

もちろん、太安万侶は、自らの歴史観に基づいて天皇譚を収録することになるが、その判定に大きな影響を与えたのは、間違いなく「萬葉集」だろう。難訓だらけの4516首もあるというのに、巻頭を飾るのは[21]代の求婚歌だからだ。
【雜歌/泊瀬朝倉宮御宇天皇代[泊瀬稚武天皇]/天皇御製歌】
  籠もよ 美籠持ち
  堀串もよ 美堀串持ち
  この丘に 菜摘ます児
  家聞かな 告らさね
  そらみつ 大和の国は
  おしなべて 我れこそ居れ
  しきなべて 我れこそ座せ
  我れこそば
  告らめ 家をも名をも


古代の言霊信仰を彷彿させる歌と言ってよいだろう。

「古事記」は、こうした断片化された個別歌を味わうのは次第に難しくなると踏んでいたと思う。
時代背景を踏まえた、叙事詩でなければ、ということ。

と言うのは、本来的には、宮中での儀礼では、古伝承口誦の寿詞奏上が行われるのが慣習だったからだ。そのための部民も存在していたのである。
しかし、現代まで、どうやら新嘗祭等の式典は続いてきてはいるものの、そこで奏上されていた古詞は現存していない。・・・太安万侶は、そうなるのを見越していたのは間違いなかろう。だからこそ、「古事記」編纂に賭けたのである。
[21]代のパートは、その気分が一番よく伝わって来る箇所と言ってよかろう。宴で寿ぐ盞歌、語り部民が正式に口誦する天語歌、ほとんど一般和歌に近い下つ歌という注記が、それを物語る。(神語や海語もあった筈である。)

以下、収載歌を一通り眺めておきたい。

---河内への行幸の途中、皇后が居た日下で国見。
  志幾大県主の家に堅魚木があり、宮に類似なので焼くようにと下命があったが
  大県主は懼畏稽首し白犬を献上し事なきを得る。
  天皇は、若日下部王の許で、途中で奇しくも得た犬ということで妻問い物として入賜。
  帰途の山の坂上で詠んだ歌を返使に持たせて派遣。---【天皇御製】

日下辺の 此方の山と 畳薦 平群の山の 此方ごちの 山の峡に
立ち栄ゆる 葉広熊樫
本には い組み竹生ひ 末方には た繁竹生ひ
い組み竹 い組み宿ず た繁竹
確には率宿ず 後も組み宿む 其の思ひ妻 憐れ


---美和河/三輪川で洗濯中の美しい引田部赤猪子乙女を見初め、
召すので待つようにと告げ、忘れてしまい、80年経過。
老いた赤猪子は意を決して宮に参上。
天皇驚愕。---

  <志都[下つ]歌>【天皇御製】
三諸の 厳橿が本 橿が本 由々しきかも 橿原乙女
  <志都歌>【天皇御製】
引田の 若栗栖原 若くへに ゐ寝て坐しもの 老いにけるかも
  <志都歌>【赤猪子 返歌】
見諸に 築くや玉垣 築き余し 誰にかも依らむ 神の宮人
  <志都歌>【天皇御製】
日下江の 入り江の蓮 花蓮 身の盛り人 乏しきろかも

---吉野宮行幸時、 吉野川の浜の麗しい乙女に出会い契りを結んだ。
再度の行幸時、遭遇した場所で、大御呉床に座し、
大御琴を弾き、乙女が舞い、歌を詠んだ。---

  【天皇御製】
胡坐居の 神の御手もち 弾く琴に 舞する嬢子 常世にもかも

---阿岐豆(秋津)野行幸---【天皇御製】
三吉野の 小室岳に 鹿猪伏すと
誰そ 大前に白す やすみしし 吾が大王の 鹿猪待つと 胡坐に坐し
白妙の 袖着装束ふ 手脛に 虻齧きつき
其の虻を 蜻蛉早咋ひ 斯くの如
何に負はむと そらみつ 倭の国を 秋津洲と云ふ


---葛城山上登幸---【天皇御製】
八隅知し
我が大王の 遊ばしし
宍の病み
宍のうたき畏こみ
我が逃げ登りし 在峯の 榛の木の枝


---丸邇の佐都紀臣の娘 袁杼比賣に求婚---【天皇御製】
少女の い隠るを
金鋤も 五百箇もがも 鋤き撥るもの


---豐樂時@長谷 百枝槻下---
  <天語歌>【伊勢國 三重婇(獻 大御盞)】

纏向の日代の宮は …[12]代
 朝日の 日照る宮
 夕日の 日翔ける宮
(長谷朝倉宮は) …[26]代
 竹の根の 根足る宮
 木の根の 根延ふ宮
(伊勢神宮は)
 八百によし斎の宮
真木さく 日の御門 新嘗屋に 生ひ立てる 百足る槻が枝は
 上枝は 天を覆へり
 中枝は 吾妻を覆へり
 下枝は 鄙を覆へり
 上枝の枝の裏葉は 中枝に落ち触らばへ
 中枝の枝の 下つ枝に落ち触らばへ
 下枝の枝の裏葉は あり衣の三重の子が 捧がせる瑞玉盞に
  浮きし脂落ち足沾ひ 
…くらげなす
  水こをろこをろに来しも 
…おのごろ嶋
綾に恐し
高光る 日の皇子
事の語り事も此をば

  <天語歌>【大后歌】
倭の 此の高市に …[4]軽之境岡宮[8]軽之堺原宮([15]軽島明宮)
小高る 市の司 新嘗屋に
覆ひ樹てる 葉広 斎ゆつ真椿
 其が葉の 広り座し
 其の花の 照り座す
高光る 日の皇子に 響みて 奉らせ
事の語り事も此をば

  <天語歌>【天皇御製】
百礒城の 大宮人は 鶉鳥
領巾取り懸けて 鶺鴒
尾行き和へ 庭雀
髻華住まり居て 今日もかも 酒御付くらし
高光る 日の宮人
事の語り事も此をば


---春日 袁杼比賣 豐樂時 獻大御酒---
  <宇岐[盞]歌>【天皇御製】

水注く 臣の少女
秀樽取らすも 秀樽取り
堅く取らせ 下堅く
弥堅く取らせ 秀樽取らす子

  <志都歌>【袁杼比賣獻歌】
八隅知し 我が大王の
朝処には い寄り立たし
夕処には い寄り立たす
脇几が下の 板にもが 吾兄を


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