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■■■ 「古事記」解釈 [2021.3.11] ■■■
[69]古代信仰推測に方法論あり
「古事記」序文は見事な漢文。
それを見ている途中、「古今和歌集」"仮名序"との関係が気になってついつい寄り道してしまったが、元に戻ろう。

と言うことで、下巻の続きで、上巻。📖目次的下巻題名は見事

要旨冒頭については、すでに本文と全く異なる内容紹介になっていることについて書いたが、そこらをもう一歩進めて、・・・。

この違いだが、気にならない人もいるようで、序文などどうせ奏上のための形式的なもの。齟齬があろうが、それにほとんど意味なしという見方なのだろう。
マ、現代の書でも、その手は少なくないからわからないでもない、それこそが著者の姿勢を如実に示している訳で、その確認こそ重要ではないかとも思う。小生など、ここらに目を通し、読まないことに決める本だらけだから、特にそう考える訳だが。

すでに述べたように、本冒頭を宇宙論として眺めると、その齟齬はただならぬものである。本文、はいかにも倭的な内容との印象を与えるのに、序文はまるっきりの中華帝国古代道教の見方のご紹介だからだ。
どうしてこんなことをするのか、実に、不可思議だが、マ、それなりにその姿勢を解釈することはできないでもない。

ところが、齟齬はここ以外にも。
それこそ、腑に落ちぬ記述だらけと言ってもよい。、
どう見たところで、恣意的に違いを鮮明に打ち出しているのである。それこそ、公的史書の編纂方針をオチョクルつもりかと思うほど。
その辺りはなんとも言い難いが、少なくとも、「古事記」とは関係ない書を対象とした要旨を入れ込んだと見なさざるを得ないほど。

ここまで、違うと、太安万侶が書いたのか疑問が生じるのは当たり前である。しかし、偽書とも言い難いとくる。
こまで大っぴらに違う文章を偽造する理由が思いあたらないからだ。

従って、これは太安万侶が、読者になんらかのご注意を与えようとの目論見と考えるしかない。
しかし、そうは言っても、その意図がえらく読み取りにくいのである。

と言うか、暗記お得意で知識豊富な分析に長けている人にはわかるまい、と踏んで作成したものなのだろう。"自分の頭で考えてみヨ。"と投げかけている訳だ。
言い換えれば、「古事記」の読者は限定的で、概ね、社会では知識人クラスに相当する訳だが、どうせこの投げかけに気付かぬ人達だろうと見ていると言えなくもない。

もちろん、上巻は所謂"神代"の時代である。・・・

  天御中主神 以下。
  日子波限建鵜草葺不合尊 以前。
 爲上卷。

神と命の名前で時代を示す訳で、場所や物や自然現象は時代の指標にしないことがわかる。名称は、本文ではもっぱら"命"が用いられており、これはなんらかの神命を負って存在することを示唆しており、単なる尊称ではないと思われるが、ここでは天津日高日子波限建鵜葺草葺不合"命"の称号を"尊"としている。

要約は、対句構造仕立てでの紹介。
簡略を旨としているように映る。
⓿《混沌》
 夫
 混元既凝 氣象未效
 無名無爲 誰知其形

❶《造化3神
   ⇒二靈(伊邪那岐命+伊邪那美命)
   ⇒群品之祖(国生み・神生み)》
 然
 乾坤初分 參~作造化之首
 陰陽斯開 二靈爲群品之祖

❷《洗目(天照大御~+月読命)
   ⇒滌身(海神)》
 所以
 出入幽顯 日月彰於洗目
 浮沈海水 ~祇呈於滌身

ここは意味深。
🈚建速須佐之男命
[本文順番]滌身⇒洗目

太安万侶の疑問が直接的に語られていそう。
禊で貴神が生まれる箇所だが、普通に考えれば、両目からの太陽神・月神誕生とのストーリーだと思われるが、鼻から天体以外の神が生まれるというかなり突飛な話になっているからだ。
しかも、常識的には暦や汐に係わる重要な月神が社会的に重視されていないことに気付いたのであろう。

しかも、太陽神が冥界から生まれるともいえる訳で、日・月に死と再生の観念が組み込まれていることを指摘している。
一方、この2柱に次ぐ重要な神は、海で誕生する。明らかに、潜水を日常的に行っているような海人の神話であることがわかる。
このことは、建速須佐之男命の出自は、海人ではないことを意味していそう。全く違う系譜だが、海人に組み込まれことを意味しているのかも。

ここで、要旨と外れ、神話賛辞が挿入される。

❸《太安万侶の解説》
 故
 太素杳冥 因本教 而 識孕土産嶋之時
 元始綿邈 ョ先聖 而 察生神立人之世

起源論へのスタンスを示す必要ありということか。

国土創成は神のご教示由来で、神や人は聖なる人格神が打ち立てたとされる、とのおことわり。伝承を知れば、それが"ファクト"と察することができるというのが主旨と見た。
そうなると、この記述は実に面白い。
建速須佐之男命譚とその系譜である大国主命譚が数々収録されているが、序文要旨では完璧に無視しているからだ。
その分量はただならぬもので、「古事記」の主眼はその部分にありと言ってもおかしくない程なのに。
当然ながら、それも"ファクト"の筈。
なかなかに味な真似。
🈚天岩戸
🈚出雲神話
🈚葦原中津国平定

確かに、天岩戸譚は不可思議な話である。明らかに、太陽の復活祭祀であるが、どうもそれまでバラバラだった太陽神祭祀次第を統一した譚にもとれそうなストーリーになっている。天照大御神が鏡が影を映す器具であることを知らなかったようにも受け取れる仕草を見せたりするところを見ると、そこらは結構難題だったということなのかとも思ったり。

ただ、カットしたとはいえ、大蛇斬剣の存在と、国譲り交渉地名には触れている。それによって、国家の統一感とはどういうものかを語っているのだろう。

❹《継承の基本思想》
 寔知
 懸鏡吐珠 而 百王相續
 喫劔切蛇 以 萬神蕃息 歟
 議安河 而 平天下
 論小濱 而 清國土

それにしても、よくできた論調である。
鏡と珠が、王権継承のレガリアであると。
そして、剣は、蛇信仰を切り捨てた宝器であるとともに、そのことで神々を集めることができた力の象徴でもあると。

河川や海浜での、神々の交流による合議や方針樹立を通して国を平定して行ったことを顧みるのが系譜記載の役割ということになろう。
そして、大胆にも、百王相續としており、神代の時代は天皇まだ存在せずと。

上巻から初代天皇譚から始まる中巻への移行部分は至極簡略。

❺《天孫降臨⇒東遷》
 是以
 番仁岐命 初降 于 高千嶺
 ~倭天皇 經歷 于 秋津嶋
 ・・・

なんと、南島海人伝説は排除されている。
🈚山幸彦海幸彦

皇統譜の書なら、初代天皇の前代になんらかの形で触れそうに思うが。天津日高日子番能邇邇芸能命の話は降臨以外は大所に関係せずということか。
上記の続きは熊の出現で、東遷は語られてもない。神話的ではないと見なされたのだろうか。

さて、こうして眺めてみると、中華帝国型で描くとこうなることを示していることがわかる。つまり、本朝の状況はこれとは異なる点が特徴といえる。
そこに注目して本文を読む必要があるという注意書きと違うか。

もちろん、表面的には、天帝信仰などどこにもなく、冥界や海原への畏敬心が強く、禊という儀式を第一義的に考えるという点で大きく違うのだが、それ以上に根元から異なることを理解しておく要ありということになろう。

中華帝国では、古道教とでも言うべき土着の神々は、結局のところ、整理されてヒエラルキーの中に埋め込まれていったが、本朝ではそれが難しかったという点を、考えておくべきということでもあろう。

そもそも、名前だけの神が大勢存在しており、土着臣神か理念神かの判別に意味など無い状況が意味するものを考えよと言っているようなもの。
確かに神は存在しているものの、概念が形成されているとも言い難く、多分に情緒的。理屈でしか位置付けることができないヒエラルキーとの親和性は極めて低かろう。
人々は、もともとそれで通じ合ったのであろう。個人が神と向かい合うなら人格神化必至だが、理屈なしの神々しさを集団で感じ取れる対象が神だったと考えればよいのでは。
人種的にもハイブリッドで、言語も重層化を厭わない人々ならではの自然な姿勢なのかも。
しかし、同じハイブリッドで多種言語混淆化進んでいそうなインド亜大陸とは、180°異なる。理念追求を是とするため、極端な思想が次々と生まれては、消え去っていくのである。
本朝は、情緒の共有を重視するので、その方向には進まない。理念が異なっているのに、情緒共有を図ろうという無理筋を追求してしまう。それが上手く行けば、理念的歩み寄りが生まれるが、下手をすれば、儒教的な強権による統制が進み、情緒矯正が行われてしまうことになる。

例えば、陽物、土偶、銅鐸、蛇神といった忘れ去られた古代信仰も、決して潰され消滅した訳ではなく、妥協した形でどこかに残されている筈だと思われる。

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