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■■■ 「古事記」解釈 [2021.3.15] ■■■
[73]元明天皇は武則天を目指したか
太安万侶が序文を奏上したのは元明天皇/阿閇皇女[在位:707-715年]
こうした文章には、天皇を寿ぐ、讃的な箇所は礼儀上不可欠。特段、目を通す必要があるようにも思えないが、滅多に耳にしない漢語だらけなので眺めておこう。

高位の官僚としては、唐語に熟達しているところを見せる必要があるから十分想定されることではあるが、浅学な身にしてみると、こんな熟語がはたしてあるのかと思うような語彙だらけで、相当な違和感を覚える。
唐代も、白楽天が登場する迄は、易しい表記は沽券に係わるとされたようで、当時としては、特別な訳ではないだろうが。

それにしても、冒頭から、天皇の称号を皇帝としたのには恐れ入る。この時代、中華帝国型の天子独裁-官僚統治の仕組みへと邁進していたのだろうし、女帝ではあるが、そのリーダーシップを遺憾なく発揮していたからならではの書き方と言ってよいだろう。

それを示す筈のこの後は韻を踏む四言対句だが、これが意味不明。・・・
 伏惟皇帝陛下。
  得一光宅。
  通三亭育。


仕方ないので、本居宣長:「古事記伝」を参考にすることに。
 "此より又例の漢語どもを多く引出て賛申せり。"との評定で、・・・
 【得一】
  天得一以清
  地得一以寧
  王侯得一以
  為天下貞一
 [「老子」]
 【光宅】
  天下を凡て家とする。
 [「古文尚書」堯典]
 【通三】
  天地人の三才に通ずる。
 【亭育】
  民を化育する。
  亭之毒
[=育] [「老子」]
この"光宅"だが、武則天が実質的権力を握った睿宗代の元号[684年]であるから、当時としてはよく知られた語彙だったと見てよさそう。多分、その出典は以下で、天子の威光が三界に広く居するとの嘉語なのだろう。
 昔在帝堯,聰明文思,光宅天下,將遜于位,讓于虞舜,作《堯典》。 [「尚書」]
"通三"の意味は常識のレベルのようだ。
 古之造文者,三畫而連其中,謂之王;三畫者,天地與人也 [「春秋繁露」卷第十一#44"王道通三"]
とうも、適当に漢籍から寿ぎに向いた語彙を見つけて来て形式的な儀礼文章に仕上げたというものではなさそうである。儒教国家的な政治を志向する姿勢を褒めまくっているように思われる。
女帝で、有能な官僚を出自にかかわりなく抜擢した武則天的な為政とを讃えいるとしか思えない。

序文が本文とかけ離れているのは、考えてみれば当たり前である。古代の統治の古き事績を歌謡化したものを記録するのが本文であり、序文は時代に合った政治体制構築に邁進する朝廷の考え方でそれを眺めたものが序文なのだから。

ここからは、まるっきりの古代道教的信仰の発露に近い記述となる。
先ずは、得一光宅の寿ぎ。
  御紫宸 而 コ被馬蹄之所極
  坐玄扈 而 化照船頭之所逮

"紫宸"は現代でも通用する、北辰信仰の要である場所。
そこから、馬が行ける限りの地を、独で被うというのである。
一方、"玄扈"は「山海経」中山経4記載の地名である。洛水の南辺り。ここでは中華帝国の祖である黄帝が座す地という意味のようだ。📖中山経#4@酉陽雑俎的に山海経を読む
そこから、河川を行き交う船を照らすというのである。
さらに、これに絡んで、雲一つ無く、太陽が燦燦と輝く世界になっているとの、二句が付属する。
  日浮重暉
  雲散非烟


ここからは、完璧な中華帝国文化のコピーと言ってよいだろう。
 連柯并穗之瑞
   史不絶書
 列烽重譯之貢
   府無空月
 可謂名高文命
   コ冠天乙 矣


この文章は、中国では今でも有名らしい。
  赬茎素毳,并柯共穗之瑞,史不絶書;
  棧山航海,逾沙軼漠之貢,府無虛月。

    "[@「文選」:顔延之"三月三日曲水詩序"@唐代初期]
連理枝と嘉禾が出現する瑞兆は史不絶書(史書上不斷有記載)というだけの話で、帝国内の瑞兆報告が臣下の重要な勤めだった訳だが、「古事記」本文にも瑞兆話はあるとはいえ、そのような色には染まっていない印象を持つが、瑞雲の発現があり、元明天皇即位に慶雲に改元したことの寿ぎということか。
しかし、"列烽重譯"の地は日本列島では流石にあり得ないのでは。都に城壁も無いのに、辺境防衛の列烽でもあるまいし。方言も結構難しいとは言え、2重通訳を必要とするほどの異文化の民と接しているとも思えない。ただ、朝貢で府庫が空になること無しというのは当たっていよう。
和銅への改元もあり、朝廷は沸き立っていた頃だから、その雰囲気にはピッタリということでの引用か。

意気高揚のレベルは半端ない。中華帝国の古代の王より、高名であり、徳も凌駕すると、絶賛するのだから。
  文命:夏朝創始者 禹
  天乙:殷/商初代 湯王
[c.a.前1600年]

そこまでしなくてもと思うほどのベタ褒め。唐代の高官は、争って寿ぎの詩作と瑞兆報告に精を出したから、そんなものだろうと思ってしまいがちだが、太安万侶は結構本気だったかも知れない。
稗田阿礼が天武天皇勅に忠実に、細々と暗唱を続けていたのを聞いて、すでに誰もかえりまなく見なくなっていたにもかかわらず、口誦叙事詩記録を行うように指示したからである。鎮護仏教に方向を定めつつ、儒教道徳をベースとした官僚制が上手く機能するようにする一方で、神祇尊崇や伝承文化の維持にも心を配っている点で、これ以上素晴らしい皇帝などいないと断言してかまわないと考えた可能性は高い。

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