→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2021.3.31] ■■■ [89] 石立たす少御神と酒宴 <「古事記」中巻> 🍶御祖 息長帶日賣命が美酒を醸し献上し、天皇を迎接し歌を詠んだ。・・・📖會同嗜酒 此の御酒[美岐]は 吾が御酒ならず 御酒(奇[久志])の司[加美] 常世に坐す 石立たす 少名御神[須久那美迦微]の 神祝き[加牟菩岐] 寿き狂ほし[本岐玖琉本斯] 豊寿き[登余本岐] 寿き廻ほし[本岐母登本斯] 奉り来し御酒そ[麻都理許斯美岐叙] 浅ず飲せ ささ(囃子) ということで、獻大御酒。 建内宿祢命は、御子の為に返歌。・・・ この神酒を醸みけむ人は その鼓臼に立てて 歌ひつつ醸みけれかも 舞ひつつ醸みけれかも この御酒のあやに歌愉し ささ これは酒楽之歌。 (正確には、少名毘古那神ではなく少名御神であり、この名称は「古事記」全文中ココだけ。同一ではないと言えないこともないが、常世に坐すと述べているから、間違っていることはないだろう。) 歌で気になるのは"石(≒岩/磐)立たす"。句の流れからすれば、唐突であり、枕詞とみなしたいところだが、用例が無い。従って、そのような解釈は無理筋。 そうなると、筋が通りそうな形容表現を捜すしかないが、降臨の依り代とか、恒久的あるいは盤石という意味しかありえそうにない。 しかし、"常世"との語彙が使われている以上、後者では重複記述になってしまうので避ける筈。 結局のところ、石造りの神像ということになる。 う〜む。 仏教天部像全盛時代ではないのに、はたして神像があったのだろうか。 しかも、少名毘古那神の体躯は小人的サイズとされている。石立状況となると、現代的には石製フィギュアのような神像ということになりかねまい。・・・、と考えていたら、どうもそういうことではなさそうなのだ。 巡幸先に神石信仰(伝一尺七寸)が存在していたらしい。伝承では崇神天皇代に神石をお社に奉安。・・・ ⛩宿那彦神像石神社@能登鹿島中能登金丸(御祭神:宿那彦神≒少彦名命 他後代合祀あり)…気多大社境外摂社 この地で多気倉長命と協業。 ⛩ 〃 @能登七尾黒崎(御祭神:大穴持神 宿那彦神) 大己貴命と別れ、阿良加志比古神と協業。 渡来時の断崖上の巨石に鎮座し、これが神像に。 さらに、太平洋側に迄、石神信仰が広がっていたらしいから、なんらかの説話が広がっていたようである。 ⛩酒列磯前神社856年@常陸岬の丘上(御祭神:少彦名命) 鹿嶋郡大洗磯前有神新降。初郡民有煮海為塩者。夜半望海。光耀属天。明日有両怪石。見在水次。高各尺許。体於神造。非人間石。・・・我是大奈母知少比古奈命也。[「日本文徳天皇実録」斉衡3年] 歌には、"酒楽之歌"の名称があり、宮廷歌謡として、酒宴の定番があったということだろう。漢詩に対応する、勧酒-謝酒-辞去-送別の歌を皇后が詠ったので、若き太子の引率者としての苦労の日々を送ってきた宿禰にしてみれば、その甲斐ありと感極まれりのシーンが描かれている訳だろう。 これを考えると、以下の大御神-少御神の歌々を重ねていると言ってもよいだろう。 大汝 小彦名乃 将座 志都乃石室者 幾代将經 [「万葉集」巻三#355 生石村主真人歌一首] 大汝 小彦名能 神社者 名著始鷄目 名耳乎 名兒山跡負而 吾戀之 干重之一重裳 奈具佐米七國 [「万葉集」巻六#963 冬十一月大伴坂上郎女發帥家上道超筑前國宗形郡名兒山之時作歌一首] 大穴道 少御神 作 妹勢能山 見吉 [「万葉集」巻七#1247 覊旅作 柿本朝臣人麻呂] 天皇崩御後の皇后(息長帯日売命)-太子という関係に当て嵌めたということ。大(祭祀)-小(政治)-臣(執行)という理想形を寿いで祝宴が催された訳だ。 これは、同時に、日本海側すべてが皇后-太子政権に服属することを誓う一大イベントが成功裏に行われたことの一大祝賀のイベントでもあった訳で。・・・太子は建内宿禰命に率いられて、淡海〜若さ〜高志(角鹿[敦賀]仮宮)と辿って禊を行った。そこでは、伊奢沙和気大神@気比神宮で名前交換と御食献上が行われたのである。 勘では、ここらは検索の要ありなので、稿を改めることにしよう。 (C) 2021 RandDManagement.com →HOME |