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■■■ 「古事記」解釈 [2021.4.6] ■■■
[95] 海外の国が突然登場する理由
「古事記」の巻末辺りが異常に簡素な理由についてもう少し。📖巻末段記載の意義不明

"本朝仏聖筆頭の聖徳太子血族の名称・範囲ともども同レベル。と言うか、両書ともに全く記載していない。"としたが、もともと「古事記」は、仏教については全く触れない方針。
おそらく、蘇我氏や聖徳太子の話を書かざるを得なくなると、"崇仏派v.s.排仏派"の抗争話になりがねないからだろう。
(「古事記」記載の蘇我関係は、[29]天国押波流岐広庭天皇/欽明天皇が娶った岐多斯比賣は宗賀之稻目宿禰大臣之女と言う点。31]橘之豐日命/用明天皇は皇子で[33]豐御氣炊屋比賣命/推古天皇は皇女。聖徳太子は上宮之厩戸豐聰耳命という名前だけ記載されている。)
そうなると、肝心な点が見えなくなりかねないと踏んだのでは。
本邦は、もともと渡来神歓迎風土。仏教が国家鎮護・社会安定をもたらすということで、御利益多しとみなせば、競うように新たな神の導入として、信仰が広がるのは自明。教団や教義を持たずに来たので、習合・併存の障害は少なく、新たな信仰状況が生み出されるだけのこと。
「古事記」上巻はそこらの性情を分かりやすく描いていると言えななくもない。

そこに、仏教を巡る争い話を入れると折角の苦労が水の泡となりかねまい。

要するに、"崇仏派v.s.排仏派"とは言うものの、本質的には他の皇位継承となんら変わらないという考え方。

天子独裁型儒教国だと、信仰や政策転換を図ろうとなると、執行部隊である高級官僚とそれに結びついた特定貴族の粛清は避けられない。ところが、臣下の合議で、優勢な勢力から推挙された継承者が選ばれる仕組みだと、それは単なる人事という解釈も成り立つので、柔軟な対処が可能になる。
つまり、有力勢力対立と継承者候補者角逐が一体化した、熾烈な主導権抗争が始終発生しかねないと言うこと。

「古事記」が記述を避けたのは、仏教だけではない。
外交関係については、一部の例外を除いて、一切触れないことにしており、徹底している。
この方針、実に秀逸。
「例外」がすべてを物語っているからだ。

よく知られているように、東シナ海を巡る外交については、様々な伝承があるがその齟齬が大きいことが知られている。興味や思惑が異なるから当然のことで、それは現代でも言えること。
真正直に検討する学者が生まれる環境にはなく、不詳と見なすべきだと思うが、そうもいかないので、政治状況を勘案して当座の結論を出しておくということになっていると思われる。

「古事記」は新羅と百済について、ハイライト的に特定の天皇代だけ、お話を入れ込んでいるのである。
と言うことで、倭国使節朝貢年を3世紀から整理してみた。・・・

西晋代「梁書」卷五十四列傳第四十八諸夷 倭国
 <高句驪-百済-新羅-倭-
  文身国(在倭國東北七千餘里)-
  大漢国(在文身國東五千餘里)-
  扶桑国
(沙門慧深:「扶桑在大漢國東二萬餘里 地在中國之東 其土多扶桑木 故以爲名 」)>
【266年】

倭国使節欠史の世紀
304年からは五胡十六国・東晋代。
諸侯の軍事力が強化され、異民族傭兵活用も進んだため戦乱が収まらなくなったということ。この状況では、東シナ海云々に興味が湧く訳もなかろうし、朝鮮半島支配の箍も外れて行くことになる。(この時代の半島は、倭国も含めて勢力間の戦闘が続いた筈。中国の史書からすると、高句麗⇒百済⇒新羅の順で勃興したと見るのが自然で、新羅はこの時代に勃興したようだ。…377年前秦に朝貢した高句麗に新羅が附随したとの記事がある。
以下を当て嵌めてみた。新羅と記載しているのは、ココと示唆したのではないかと見て。
 ●「古事記」[14]皇后
 大后息長帶日賣命・・・而 坐殯宮・・・爲國之大祓・・・
 亦建内宿禰居於沙庭 請~之命・・・
 備如教覺整軍雙船
 度幸之時 海原之魚不問大小悉負御船而渡
 爾 順風大起 御船從浪
 故 其御船之波瀾押騰新羅之國 既到半國・・・
 故 是以 新羅國者定御馬甘
 百濟國者定渡屯家

 ●「古事記」[15]
 新羅人參渡來 是以建内宿禰命引率
 
(又昔 有新羅國主之子 名謂天之日矛 是人參渡來也)
 百濟國主照古王・・・阿知吉師以貢上


   <「古事記」下巻の時代・・・一切無記載>
東晋代「晋書」安帝紀
【413年】
宋代「宋書」
【421年】…夷蛮伝(武帝)
【425年】…夷蛮伝(文帝)
【430年】…文帝紀
【438年】…文帝紀
【443年】…夷蛮伝(文帝)
【451年】…文帝紀
【460年】…孝武帝紀
【462年】…孝武帝紀
【477年】…順帝紀
【478年】…順帝紀
南斉代「南斉書」高帝紀
【479年】
南朝梁「職貢圖」@526-539年(現存は模写草本残卷)
 <倭国>南朝斉 建元【479-482年】時 上表
 <斯羅国>本東夷辰韓之小國也。
      魏時曰:新羅
      宋時曰:斯羅 其實一也
      或 屬 韓
      或 屬 倭国
梁代「梁書」
【502年】…武帝紀
「隋書」卷八十一列傳第四十六東夷#6俀國
 (魏時 譯通中國三十餘國。皆自稱王。・・・都於"邪靡堆"。)
 (漢光武時 遣使入朝 自稱大夫。)
 (安帝時 又 遣使 朝貢謂之倭奴國。)
 (桓靈之間 其國大亂 遞相攻伐歴年無
  主有女子名"
卑彌呼"能以鬼道・・・)
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<「古事記」巻末段の時代・・・一切無記載>
【600年=推古8年】開皇二十年
 倭王姓阿每"字多利思北孤"號阿輩雞彌 遣使詣闕・・・
 王妻號"雞彌" 後宮有女六七百人名 太子爲"利歌彌多弗利"
 無城郭内官有十二等・・・
 
新羅 百濟皆以倭爲大國 多珍物 並敬仰之 恒通使往來・・・
 :
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<598年隋は高句麗出兵敗退。倭国は自国が優位に立ったと判断か。>
【607年@煬帝代】大業三年
 其王多利思北孤遣使朝貢
 使者曰:"聞海西菩薩天子重興佛法 故遣朝拜 兼沙門數十人來學佛法"
 其國書曰:「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云
 帝覽之不ス 謂鴻臚卿曰:"蠻夷書有無禮者 勿復以聞"
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【608年】明年
 上遣 文林郎 裴清使於倭國 <答礼使であろう。>
  度百濟 行至竹島 南望𨈭羅國[済州島] 經都斯麻國[対馬] 迥在大海中
  又東至一支國[壱岐] 又至竹斯國[筑紫] 又東至秦王國[不詳]
  其人同於華夏 以為夷洲疑不能明也
  又經十餘國 達於海岸 自竹斯國以東 皆附庸於倭

上記、国名は"俀⇒倭"に変換した。倭王名の多利思北(比)孤はママ。俀・倭は表意的には同じだが、表音は異なる。過去を明らかに「魏志」から引用し、都も当時と変更無しとしておきながらの突然の変更。裴清派遣の書き方からすると、東シナ海の勢力状況に興味あり、ということ以上ではなさそう。
「隋書」卷三帝紀第三煬帝上
【608年】大業四年三月
 壬戌,百濟、倭、赤土、迦羅舍國並遣使貢方物。
【610年】大業六年春正月
 倭國遣使貢方物
日本の史書が収録しているのは、608年からの外交。これ以前はすべて無視である。
その理由は単純でもなさそうである。「職貢圖」では裸足姿で、未開の地から来訪した雰囲気を醸し出しているからだ。その時代の大和の文化とは相当違っており、そのような対応をしていた可能性もあるし、その一方で東シナ海の統治者の位を要求したりと、中華帝国とのパワーバランスを判断しながら交渉していたようだから。

このため、"卑彌呼"の比定も恣意的なレベルに留まらざるを得ないし、史書記載の一文字名称の倭王や多利思北孤の天皇比定も通説以上ではない。発生している矛盾の理由が説明できない以上、"不詳"以外のなにものではないからだ。(その矛盾自体についても、検討対象は東シナ海関係国の総合化した歴史になるから、おそらく精査されたこともなかろう。)
太安万侶は史書編纂にも係わっていた筈。そんな矛盾発生を予め知っていれば、外交関係については語らずとの安全牌で行くことにするのは当たり前。しかし、貴種血脈上濃いとは言い難いにもかかわらず、"大后"息長帶日賣命としている以上、その理由に触れない訳にはいくまい。流石に、ここだけは触れざるを得なかったのだろう。
この天皇代は、宮地が、畿内から離れるという異常が発生している。皇位継承権争いというレベルではなく、東シナ海〜日本海の広域覇権問題への緊急対処が不可欠になったからこその動きと見て間違いなさそうだ。
おそらく、そこらを、できる限り当たり障りの無いように書いたと思われる。
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  <史書間の記載に齟齬>
「日本書紀」卷廿二豊御食炊屋姫天皇 推古天皇
【600年】八年春二月 <意図的に遣隋使派遣記載削除か。>
  (新羅與任那相攻 天皇欲救任那)
【607年】十五年秋七月
 <"隋"と記載せず、"唐"を、勝手に中華帝国一般を指す語彙にしている。
   妹子の存在もわからぬところがある。>

  大禮小野臣妹子遣於大唐 以鞍作福利爲通事
【608年】十六年夏四月
  小野臣妹子至自大唐
  唐國號妹子臣曰蘇因高 即大唐使人裴世清
  下客十二人 從妹子臣至於筑紫 遣難波吉士雄成 召大唐客裴世清等
  爲唐客更造新舘於難波高麗舘之上

【608年】十六年六月
  唐帝以書授臣
【608年】十六年八月
  唐客入京 是日 遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢
  額田部連比羅夫以告禮辭焉
  壬子。召唐客於朝庭。令奏使旨。時阿倍鳥臣。物部依網連抱二人爲客之導者也。於是。大唐之國信物置於庭中。時使主裴世清親持書。兩度再拜言上使旨而立。其書曰。皇帝問倭皇。使人長吏大禮蘓因高等至具懷。朕欽承寶命臨仰區宇。思弘徳化覃被含靈。愛育之情無隔遐迩。知皇介居表撫寧民庶。境内安樂。風俗融和。深氣至誠。達脩朝貢。丹款之美。朕有嘉焉。稍暄比如常也。故遣鴻臚寺掌客裴世清等。稍宣徃意。并送物如別。時阿倍臣出庭以受其書而進行。大伴囓連迎出承書置於大門前机上而奏之。事畢而退焉。是時。皇子。諸王。諸臣悉以金髻華著頭。亦衣服皆用錦紫繍織及五色綾羅。
丙辰。饗唐客等於朝

【608年】十六年九月
饗客等於難波大郡。
唐客裴世清罷歸。則復以小野妹子臣爲大使。吉士雄成爲小使。福利爲逸事。副于唐客而遺之。爰天皇聘唐帝。其辭曰。東天皇敬白西皇帝。使人鴻臚寺掌客裴世清等至。久憶方解。季秋薄冷。尊何如。想清悉。此即如常。今遣大禮蘓因高。大禮乎那利等徃。謹白不具。是時。遣於唐國學生倭漢直福因。奈羅譯語惠明。高向漢人玄理。新漢人大國。學問僧新漢人日文。南淵漢人請安。志賀漢人惠隱。新漢人廣齊等并八人也

【609年】十七年秋九月
  小野臣妹子等至自大唐 唯通事福利不來
【614年】廿二年六月
  犬上君御田鍬 矢田部造於大唐
【615年】廿三年秋九月
  犬上君御田鍬 矢田部造至自大唐

【追記】
素人的見方から言えば、国名"俀と、隋を唐と記載する姿勢は対応したもの。中華帝国では、国名尊重は第一義的なものだからだ。五胡十六国時代は、国名とその元首制定年号は2桁以上存在していた筈で、中華帝国とはその一元化とほぼ同義。それこそが"御威光"そのものだからだ。おそらく、倭国使節代表は皇帝を小馬鹿にして、隋の年号使用を拒否したのである。しかし、煬帝は、国際状況を鑑みると、史書で貶める以上のことはできなかったということ。朝鮮半島は早くから、年号を受け入れており、独自元号廃止の方向に進めていた。日本やベトナムとは異なり、支配層は属国化で得られる利益の方を重視したのである。


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