→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2021.4.13] ■■■ [102] 東西を平定した倭建命は反朝廷の雄か 悲劇的な終焉もあって、確かに、その条件を満たしているとは言えるが、「古事記」のストーリーを読むと、そのように扱われているとも思えない。 どう見ても、必要とも思えない、残虐で悪辣なシーンにハイライトを当てており、イメージを落とそうとの意図的記述以外のなにものでもなかろう。 おそらく、そこらについては、200年に渡り様々な議論があった筈。しかし結局のところ皇国時代に英雄扱いすることになって、今に至るというところか。 今更、素人が云々する領域でもなかろうが、枕詞に触れた以上、無視するのはどんなものかということで、取り上げておこう。 ㊥倭建命化白智鳥 於是化八尋白智鳥 翔天而向濱飛行 爾 其后及御子等 於其小竹之苅杙 雖足䠊破 忘其痛以哭追 此時歌曰: 浅小竹原 腰難む 虚空[蘇良]は行かず 足よ行くな ・・・歌其御葬也 📖虚見津であって空満ではない ここでは訳を虚空としているが、見上げる"空"であって、「古事記」感覚で読む"虚見津"なら、本来は高天原の"天"だが、それとは違う。白色の千鳥が飛空して御陵に至るという情景だからだ。現代感覚では、"魂が天空に昇って永遠の・・・"的に解釈しがちだが、そこらは実は自明ではない。 ここは太安万侶流の書き方であり、飛翔して行き、河内志幾の白鳥御陵に鎮座されたというのだから、ご遺体無しと言っているようなもの。 ・・・と言うことで、様々な想像を働かせることが可能になっている訳だ。 どのように平定したかだが、基本は"言向和平"のようだが、この対応は建御雷神から始まる。別途見ていくが、神代の時代は"命以⇒言依"であり、平定という言葉は同じように使うが、倭建命とは次元が違うようだ。 ㊤天降-天鳥船神副建御雷神 天鳥船神副建御雷神而遣 是以此二神 降到出雲國伊那佐之小濱而 拔十掬劔 逆刺立于浪穗 趺坐其劔前 問其大國主神言: 《天照大御神 高木神》之命以 ☚ 問使之 "汝之宇志波祁流葦原中國者 我御子之所知國" 言依賜 ☚ 汝心奈何 : 《建御雷神》 返參上 復奏: 「言向和平葦原中國之状」 これはあくまでも上巻であるから比較しても意味は無いが、小碓命/倭建命を神として扱うことを避けていそう。 しかも、英雄譚の元となるストーリーに入る前に、予め、すべての事績を一行に纏めており、単にそれだけのこと、との印象を与えたいようにも思えてくる。・・・ 小碓命者 平東西之荒神 及 不伏人等也 ただ、平定対象のなかで、熊曾建は以劔自尻刺通した上で殺しているし、建御雷神による"言向和平"済み地域だったせいか、出雲健も打殺であり、平定語彙使用に差をつけているように見える。 実際、国譲りさせるために派遣されたにもかかわらず、居ついてしまった場合の用語は凝った表現になっているし。 ㊤天降-天若日子 問 天若日子状者: 汝所以使葦原中國者 言趣 和其國之荒振神等之者也 何至于八年 不復奏 地場神信仰を容認する代わりに、神々のヒエラルキー化に従わせることで、戦乱の極小化を図ったようにも受け取れる書き方である。 ㊥倭建命 於是 天皇([12]大帶日子淤斯呂和氣天皇/景行天皇)惶其御子之建荒之情 而 詔之 西方有熊曾建二人 是不伏无禮人等 故 取其人等 而遣・・・ 殺也・・・ 稱御名謂倭建命 然 而 還上之時 山神河神 及 穴戸神 皆言向和 而 參上 即入坐出雲國・・・ 打殺出雲建・・・ 爾天皇 亦頻詔倭建命: 「言向和平東方十二道之荒夫琉神 及 摩都樓波奴人等・・・ 「天皇 既所以思吾死乎 何撃遣西方之惡人等 而 返參上來之間 未經幾時 不賜軍衆 今更平遣 東方十二道之惡人等・・・ 故到尾張國 入坐 尾張國造之祖 美夜受比賣之家 乃雖思將婚 亦 思還上之時將婚 期定而 幸于東國 悉 言向和平山河荒神 及 不伏人等・・・ 自其入幸 悉 言向荒夫琉蝦夷等 亦 平和山河荒神等・・・ 自其國越科野國 乃 言向科野之坂神 而 還來尾張國・・・ : 於是化八尋白智鳥・・・ : 凡此倭建命 平國廻行之時 久米直之祖 名七拳脛 恆爲膳夫以 從仕奉也。 このような平定表現は、以下のように、他にもあるが、倭建命後には出てこないところを見ると、この時点で、独立志向の動きは収まったのであろう。 ㊥熊野山之荒神 故天神御子 問獲其横刀之所由 高倉下答曰: 「己夢云 《天照大神 高木神》 二柱神之命以 ☚ 召建御雷神而詔: "葦原中國者 伊多玖佐夜藝帝阿理那理 我之御子等 不平坐良志 其葦原中國者 專汝所言向之國 故 汝建御雷神可降"」 爾答曰: 「僕雖不降 專有平其國之横刀 可降是刀」 ㊥畝火之白檮原宮 故如此 言向平和荒夫琉神等 退撥不伏之人等 而 坐畝火之白檮原宮 治天下也 ㊥吉備國 大吉備津日子命 與 若建吉備津日子命 二柱相副而 於針間氷河之前 居忌瓮而 針間爲道口以言向和吉備國也 ㊥御眞木入日子印惠命/崇神天皇 又此之御世 大毘古命者 遣高志道 其子建沼河別命者 遣東方十二道 而 令 和平其麻都漏波奴人等 ㊥大毘古命 亦斬波布理其軍士故 號其地 謂 波布理曾能 如此平訖 參上覆奏 故大毘古命者 隨先命 而 罷行高志國 爾 自東方所遣建沼河別 與 其父大毘古共 往遇于相津 故其地謂相津也 是以 各和平所遣之國政 而 覆奏 倭建命による平定は、実態的には久米の軍勢による制圧なのだろうが、宗教政策的には柔軟な方針を採用したようにも思える。 神代の時代であると、命が下ると、それは言依としての言葉だから絶対的な力が生まれるが、そういう時代ではなくなっているからだ。太子として、天皇命には"裏"的な思惑ありと解釈する状況にあり、信仰がかなり変わってきているのは間違いなさそう。 (C) 2021 RandDManagement.com →HOME |