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■■■ 「古事記」解釈 [2021.4.17] ■■■
[106] 帝紀本辞の歴史は古そう
📔「古事記」序文を読んでいて、流石、太安万侶はインテリと、感じさせられた部分がある。膨大な一見博学書的な本「酉陽雑俎」を読んでわかったことだが、情報ソースの書き方には極めて慎重で、書籍名称にはいろいろと拘りがあって、どう記載するか熟慮しているのである。従って、そこらに注意を払わぬと、著者の見解もよくわからなくなってしまうのだ。

太安万侶も、同じように、当代一の知識人であるから、そこらが気になったのである。・・・
思ったとおり、しっかりと整理されている。

帝の「古事記」編纂の詔を紹介するところだが、3部に分けて記載しており、細かな配慮がなされている。
そこまで気にすることなかろうに、と思うが。

諸家が所有しているのは➊《「帝紀」「本辭」》である。諸氏はそれぞれの祖があり、そこから始まる独自の紀と辞があり、それに繋がる天皇系譜を確認するために作られた書があるということになる。
ところが、直属の舎人への勅は用語が変わって、➋《「帝皇日嗣」「先代舊辭」》となる。ソリャそうだろう。違うものなのだから。
そして、太安万侶からしてみれば、それらは、普通に呼ぶ際の用語の➌《「先紀」「舊辭」》ということになる。
と言うことは、アップデート版➍《「紀」 「辭」》が存在しているということだろうか。

と言っても、《「先紀」「舊辭」》とは具体的にどのような書を指すのかは全くわからない。そして、最新版がはたして存在するのか、そうだとすればそれはどんな役割を果たすための書なのか気になる。しかし、さっぱり情報が無い。

いずれにしても対偶的書だから、素人としては、帝紀(帝皇日継)+旧辞(先代舊辭)→天皇記+国記→古事記+日本書紀とスッキリさせたいところだが、こうすると、どう見ても概念的に滅茶苦茶になってしまう。
と言って、今更、調べてわかるようなものでもない。

しかしザッと見ておけば、どう考えるべきかの参考にはなるだろう。・・・

とりあえず、「日本書紀」しか当たる先が無いので、書の一覧を作ってみた。
飛鳥時代に入ると《「天皇記」「國記」》が整備されたようで、それ以前から「帝王本紀」「日本旧記」と称される書が編纂されていたと見てよさそう。
【履中天皇四年八月】《「国史」「四方志」》
始之於諸國置國史。記言事達四方志。
   [「日本書紀」卷十二去來穗別天皇 履中天皇 瑞齒別天皇 反正天皇]
【雄略天皇二年七月】《「旧本」》
舊本云。・・・
   [「日本書紀」卷十四大泊瀬幼武天皇 雄略天皇]
【雄略天皇二十一年三月】《「日本旧記」》
日本舊記云。・・・
   [「日本書紀」卷十四大泊瀬幼武天皇 雄略天皇]
【弘計天皇・顕宗即位前】《「譜弟」》
譜第曰。・・・
   [「日本書紀」卷十五白髮武廣國押稚日本根子天皇 清寧天皇 弘計天皇 顯宗天皇 億計天皇 仁賢天皇]
【欽明天皇二年三月】541年《「帝王本紀」》
一書云。・・・帝王本紀多有古字。撰集之人。屡經遷易。後人習讀。以意刊改。傳冩既多。遂致舛雜。前後失次。・・・
   [「日本書紀」卷十九天國排開廣庭天皇 欽明天皇]
【推古天皇廿八年】620年
     《「天皇記」
      「国記」
      「臣連伴造國造百八十部并公民等本記」》
是歳。皇太子。嶋大臣共議之録天皇記及國記。臣連伴造國造百八十部并公民等本記。
   [「日本書紀」卷廿二豊御食炊屋姫天皇 推古天皇]
【皇極天皇四年一月】645年《「旧本」》
舊本云。・・・
   [「日本書紀卷廿四天豐財重日足姫天皇 皇極天皇]
【皇極天皇四年六月】645年《「天皇記」「國記」》
蘇我臣蝦夷等臨誅。悉燒天皇記。國記。珍寶。船史惠尺即疾取所燒國記而奉献中大兄。
   [「日本書紀」卷廿四天豐財重日足姫天皇 皇極天皇]
【天武天皇十年三月】681年《「帝紀」「上古諸事」》
丙戌。天皇御于大極殿。以詔川嶋皇子。忍壁皇子。廣瀬王。竹田王。桑田王。三野王。大錦下上毛野君三千。小錦中忌部連子首。小錦下阿曇連稻敷。難波連大形。大山上中臣連大嶋。大山下平群臣子首令記定帝妃及上古諸事。大嶋。子首親執筆以録焉。
   [「日本書紀」卷廿九天渟中原瀛眞人天皇〈下〉天武天皇]
【持統天皇二年十一月】688年《「皇祖等之騰極次第/"日嗣"」》
直廣肆當麻眞人智徳奉誄皇祖等之騰極次第。禮也。古云日嗣也。
   [「日本書紀」卷卅高天原廣野姫天皇 持統天皇]
【持統天皇五年八月】《「墓記」》
詔十八氏〈大三輪。雀部。石上。藤原。石川。巨勢。膳部。春日。上毛野。大伴。紀伊。平群。羽田。阿倍。佐伯。釆女。穂積。阿曇。〉上進其祖等墓記。
   [「日本書紀」卷卅高天原廣野姫天皇 持統天皇]
【和銅五年一月】712年
     《「帝紀」「本辭」》
     《「帝皇日嗣」「先代舊辭」》
     《「先紀」「舊辭」》
於是天皇詔之。朕聞諸家之所齎。帝紀及本辭。既違正實。多加虛僞。當今之時。不改其失。未經幾年。其旨欲滅。斯乃邦家之經緯。王化之鴻基焉。故惟撰錄帝紀。討覈舊辭。削僞定實。欲流後葉。・・・
即勅語阿禮。令誦習帝皇日繼。及先代舊辭。然運移世異。未行其事矣。

   [「古事記」序文]
【和銅七年二月】714年《「國史」》
戊戌。詔從六位上紀朝臣清人。正八位下三宅臣藤麻呂。令撰國史。
   [「續日本紀」卷六<起和銅六年正月 盡靈龜元年八月>]
【養老四年五月】720年《「日本紀」》
一品舍人親王奉勅。修日本紀。至是功成奏上。紀丗巻系図一巻。
   [「續日本紀」卷八<起養老二年正月、盡五年十二月>]
【養老四年五月】720年《「日本書紀」「帝王系圖」》
夫日本書紀者、一品舍人親王、從四位下勳五等太朝臣安麻呂等、奉勅所撰也、・・・清足姫元正天皇負扆之時、親王及安麻呂等、更撰此日本書紀三十卷并帝王系圖一卷。養老四年五月廿一日功夫甫就獻於有司。
   [「日本書紀私記」(弘仁私記)序]…多家による講演録
【天平二十年六月】748年《「帝紀」》
帝紀二巻 日本書
   [「正倉院文書続修後集」巻十七中 更可請章疏等(朱)]…漢籍扱い(「日本書紀」1〜2巻)
【弘仁三年六月】812年《「日本紀」》
始令參議從四位下紀朝臣廣濱。陰陽頭正五位下阿倍朝臣眞勝等十餘人讀日本紀。散位從五位下多朝臣人長執講。
   [「日本後紀」卷廿二<起弘仁三年正月 尽四年二月>]
【n.a.】《「日本紀」「紀」「日本書紀」》
   [「萬葉集」巻一/二]…左注:あくまでも歌の解釈に過ぎない。

名称から見て、「日本書紀」は史書としての「本紀」作成を目指していたようだが、そうなれば、司馬遷:「史記」が見本となってしまう。本邦版として同様の4部構成にしたかっただろうが、それは無理筋。📖「日本書紀」の位置付け解説書でもある
   年代記述形皇帝事績書…「本紀」
   枢要な人物の伝記…「列伝」
   対照年表…「表」
   諸制度や文化を分野別に整理…「志」


おそらく、存在していたのは、儀式用の備忘録的書の発展形である叙事詩の"辞"と、天皇代というか、各宮毎の施政記録帳だろう。もともと、両者ともに、語り部の言葉が正式であろうから散逸はまぬがれず、たとえメモが大量に残っていたとしても、暦年の一貫性を重視していなかったから、まともに史書を作成すればとんでもない大仕事になってしまう。現実的には無理と見てよいのでは。
それでも、外交を始めようとすれば、史書の提出を要求されるので、それになんとか対応してきたというのが実情では。
梁-百済-倭のルートがあったのだから、そのような書がなかった筈はないからだ。
(従って、書かれている内容を検討して、"国粋的"な天皇とする評価は疑問である。"インターナショナル"志向だからこそ、そのような書が必要となるからだ。国際情勢を見極めて、積極的な外交を展開していこうという姿勢とは逆のイメージを与えかねない見方は避けるべきと思う。外交能力欠落・国際情勢無知にもかかわらず、小中華思想で富国強兵に走る姿勢と同一視すべきではなかろう。)
そして、推古天皇皇太子によって、本格的な史書作りが行われたのは間違いなかろう。ただ、その成果は、"蘇我臣蝦夷等臨誅"で灰燼に帰したようだ。と言うか、この時点で、焚書に近い扱いを受けたという可能性も。(中華帝国では、新たな史書を作成することこそが政権簒奪王朝としての正統性を示すことになるから、政権外に弾かれた勢力が編纂した書を継承する訳にはいかないのだから。)

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