→INDEX

■■■ 「古事記」解釈 [2021.4.18] ■■■
[107a] 朝鮮半島と周囲の国々
後世、史書に合わせて創作した新羅の年表だけ見ても、何の意味もないので補足。
📖新羅友好話挿入の意図不明

中華帝国から見た朝鮮半島の状況を見ておこう。

前漢と後漢を見ておくと、どういうことか想像がつく。・・・

北方は、匈奴の東を治めるツングース族の国家。
地域的には満州から南シベリアの森林地帯で、部族集合体的風土が根強い。渤海(靺鞨)・女真・清の支配層と見なされている。儒教圏ではないので、半島側勢力とは文化的に全く異なる。現代の満州地区の人々はほとんどが事実上の漢族である。
(下記に記載した鮮卑にしても、本来的にはツングースの部族(血族を意味しない)集合体勢力。遼西に入り、漢族化し国家を造った。
満州族は清帝国を造り、儒教型官僚制度に依拠するようになり、ツングース文化を喪失することに。言語・文字表記もその後消滅。)

朝鮮半島は南端を除いて中華帝国属地。高句麗はツングース系ではあるが、中華帝国の一つの郡から派生した勢力であり、あくまでも中華帝国圏内の儒教化した勢力。遼東の地の内陸部辺りで勢力を伸ばしたようで、本来的には半島側勢力ではないが、漢の弱体化に伴い半島に進出。
半島南端のみが、"韓"だが、支配者層の祖は中華帝国と見なされている。儒教圏化しており、地場神話が存続していることはほぼ有りえない。
島嶼域は、中華帝国文化圏外であり、海南島を除けば、不確かな伝聞情報しか得られなかったようである。

前漢の状況】
【北方】(西:チュルク〜モンゴル〜"ツングース":東)
(匈奴)〜濊〜粛慎─┤大海…日本海側
      〜貊─┤大海…日本海側
【中華帝国領域(渤海日本海*横断的)】
漁陽〜右北平〜遼西〜遼東〜玄菟*〜楽浪〜臨屯*〜真番
【半島先端】

  
ツングース系は非血族部族集団なので、濊貊とは、夫餘の分派勢力とも言えよう。南下し半島東側に入って、遼東の内陸部の中華帝国の郡内部から発生した高句麗も元々ツングースであり、中華帝国型統治の国家に呑み込まれていったので、高句麗が半島へ南下したように見えるだけだろう。

范曄[398-445年]:後漢書卷八十五東夷列傳第七十五・・・
【北方】
(鮮卑)〜夫餘〜挹婁─┤大海…日本海側
       濊貊─┤大海…日本海側
【中華帝国領域渤海側】
(遼西)〜玄菟〜遼東〜楽浪〜帯方
          (内陸)・・・高句麗
【半島先端】
三韓(馬・弁・辰)
【半島南方島嶼】
州胡…済州島

  (東)→拘奴国
  (南)→朱儒国→(東南)→裸・黒歯国
【會稽西方島嶼】
東鳀人諸国…[推定]奄美群島
澶洲…[推定]沖縄
夷洲…[推定]台湾
【大陸南方島嶼】
朱崖・儋耳…海南島
【付記】「山海経」の、海内北経(蒙古〜アルタイ山脈とシベリア南部のツングース系の国家群だろう)には匈奴、大荒北経には肅慎氏之國が登場するし、大荒東経・海外東経にはK齒國が記載されているので、実在イメージが強いと思われる。📖"酉陽雑俎的に山海経18巻を読む"
【注意】"三韓"という用語は、半島支配が唯一届いていない南端部に存在する3国を意味する。おそらく、中華帝国から支配者が入り込んで生まれた国々という見方が被さっているため一括したのだろう。しかし、唐代になると、半島の大半は郡域ではなくなったため、百済+新羅+高句麗を指す用語として使われるようになる。夫餘系を出自とするツングース系属国3国という括りに変えたように映る。新羅の出自は土着でツングース系では無い可能性が高いが、どの国も、中華帝国文化を積極的に取り入れ、支配層はもっぱら漢語を使うようになり(漢文読み下しが行われなかったから致し方ない。)、中華圏内"一流国"扱いを目指したので、大同小異の3国と見なされたのだろう。
-----
夫餘國
  在
玄菟北千里
   南與
高句驪
   東與
挹婁
   西與
鮮卑
   北有弱水 地方二千里 本
地也
挹婁
  古肅
之國也
  在
夫餘 東北千餘里
   東濱<大海>
   南與北
沃沮
  不知其北所極 土地多山險
高句驪
  在<
遼東>之東千里
   南與
朝鮮 濊貊  
   東與
沃沮
   北與
夫餘
  地方二千里 多大山深谷 人隨而為居
  ⇒武帝滅
朝鮮
    以
高句驪為縣
    使屬
玄菟賜鼓吹伎人
  句驪一名貊 有别種 依小水為居
  因名曰小水貊 出好弓 所謂“貊弓”是也
東沃沮
  在
高句驪蓋馬大山之東
   東濱<大海>
   北與
挹婁夫餘  
   南與
濊貊
  其地東西夾 南北長 可折方千里
  ⇒武帝滅
朝鮮
    以
沃沮  地為<玄菟郡
  又有
北沃沮一名置沟婁
  去
南沃沮八百餘里 其俗皆與南同
  界南接
挹婁
  
北與高句驪沃沮
  南與
辰韓
  東穷<大海>
  西至<
樂浪沃沮句驪本皆朝鮮之地也
《三韓》
  韓有三種:一曰
馬韓 二曰辰韓 三曰弁辰
  
馬韓在西 有五十四國
  其北與
樂浪
  南與

  
辰韓在東 十有二國
  其北與
濊貊
  
弁辰辰韓之南 亦十有二國
  其南亦與
接 凡七十八國
  伯濟是其一國焉 大者萬餘户 小者數千家 各在山海間 地合方四千餘里 東西以海為限
  皆古之
辰國
  
馬韓最大 共立其種為辰王
  都目支國 尽王三韓之地
  其諸國王先皆是馬韓種人焉

  在韓東南大海中
  其大倭王居"邪馬台國"
  <
樂浪郡>徼 去其國萬二千里
  去其西北界
拘邪韓國七千餘里
  自女王國東度海千餘里 至
拘奴國雖皆倭種 而不屬女王
  自女王國南四千餘里 至
硃儒國人長三四尺
  自
硃儒東南行船一年 至裸國 K齒國使驛所傳 極於此矣。
  會稽海外有東鳀人 分為二十餘國 又有
夷洲澶洲  
    傳言秦始皇遣方士徐福
    會稽東治縣人有入海行遭風 流移至
澶洲者 所在絕遠 不可往來

【付記】
新羅の年表は、後世制作で、史書に合わせて作成されたものであることは間違いないが、中華帝国との交流がなかった頃の伝承が反映しているかもしれないので、記載内容には注意を払う必要があろう。
結論的に言えば、古代倭〜新羅の前身〜遼東王国域(黄河文明の夏より古い王朝)〜ツングース〜モンゴル〜チュルクのステップの道が存在した可能性があることも念頭に入れておく必要があろう。ソグドのオアシス文化が消し去られているのと同様で、忘れ去られているかも。儒教国化の道を走る前は、中華帝国と交流が無く、領土拡張に意味がなかった小さな交易國だったかも知れないからだ。
しかし、そうだとしても、そのような説が成立することは多分無いだろう。肝心の慶州遺跡群が観光業で手が入ってしまい、小中華思想的考古学がそれに輪をかけたから、ほとんど信用しかねる状況に落ち込んでしまったからである。(言うまでもないが、西域文化そのものの渡来装飾品類が出土しているからだ。そして、その隣国に倭人の川沿いの邑の遺跡が多数存在していた筈。まともに残っているかははなはだ疑問。


 (C) 2021 RandDManagement.com  →HOME