→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2021.4.18] ■■■ [107] 新羅友好話挿入の意図不明 と言うか、新羅を含め、倭国には、朝鮮半島から高級難民が渡来していたに違いなく、この辺りについてあけすけに書く訳にいかず、屈折した記述になっている筈だからだ。 すでに取り上げてたように、隋朝以前は<中華帝国-百済-倭国>の繋がりがあったのは間違いなく、それを踏まえて、この地域での動きを考える必要がある。ただ、そのような観点での解説に出くわさないので、素人にとっては、簡単なことではない。 そのとっかかりとして、少々触れてみた程度でしかない。・・・ 📖多遅摩毛理往復先の常世国 📖海外の国が突然登場する理由 「古事記」では、もともと、外交については、できる限り触れないように記載しているようで、上記の話もお読みいただければわかるように、かなり異質で特徴的な話だけ収録している。 しかし、一見、真っ当な外交話も"例外的"に登場するから、それこそこれは一体ナンナンダとなる。 男淺津間若子宿禰命/[19]允恭天皇の事績である。 此時 新良國主貢進御調八十一艘 爾 御調之大使 名云金波鎭漢紀武 此人深知藥方 故 治差帝皇之御病 病弱だったが、周囲の説得で皇位継承した天皇のもとに、貢物を献上しに使節史が訪問し、治療に当たったというのだ。薬方の渡来を意味しているようでもあるが、突然にして友好関係が構築されたが如くにも映る。 <中華帝国-百済-倭国>の強固な外交関係があったとの見地からすれば、外交方針の大転換の指摘と取れなくもない書き方である。 但し、それは、百済より新羅を重んじるというような話ではない。実際、新羅人の成果であっても、記念的地名は百済にするような、百済接待上位状況である。そこらの地位関係の変動を示している訳ではない。 新羅との対立関係を解消するという決断に踏み切ったように映る。 新羅は、もともと、倭とは古くから交流があった半島南東端の小国群の1つ。存在感はほとんどなかったが、自ら中華帝国属国化の道を選ぶことで、朝鮮半島で力を伸ばした国と見てよいだろう。実態的には、中華帝国の高官と馴染むことで、王朝を維持してきたことになる。従って、新羅にしてみれば超大国を手玉にとって上手くやったと考えることになるが、それは夢想以上ではない。独自文化を捨て中華帝国の流れに迎合しただけのことだが、自らは逆に考えるため、必然的に小中華思想一色に染まることになる。 (唐代の書「酉陽雑俎」を読んでわかったが、すでに、新羅僧は都に普通に存在する状況。この本の著者は仏教徒なので、一流僧との交流も多かったにもかかわらず、新羅の文化には魅力を感じていない。ソグドの人々や、天竺帰りの日本僧等との異文化交流は楽しいが、その類には当たらないからである。) 倭国からすれば、一部の鈍い貴族を除けば、そのような状況にある、新羅の危険性を最初からわかっていた筈。 (新羅語が官の会話語ではなくなっている点だけで、感覚的にわかっていた筈である。中華帝国言語をいち早く取り込んだことで、朝鮮半島内での勢力伸長を果たしたと見ることもできる訳だ。倭国と違い、漢文の自国語読みをしないので、支配層の常用言語は、すべて漢語とならざるを得ない。統治効率は圧倒的。しかし、これは、いずれ中華帝国内に取り込まれることを望んでいることを意味している。要するに、すべてを模倣し、ミニ中華帝国優等生を目指したということ。中華帝国は天子の民族性になんら拘りはなく、異民族支配をも容認する風土だったからだろう。もちろん、支配者の言語は漢語に限られる。) 領土拡大のチャンスを求め続けるしかない中華帝国が、属国化している新羅を先兵にして、倭国へと侵攻する機会を伺っているのは自明。従って、パワーバランスを考慮しながら、常時、戦闘能力を示しておく必要があるのは当たり前。 逆に言えば、新羅との均衡的和平状況ほど危険なものはなかろう。中華帝国の官僚が、自らの有能さを示すために、新羅を介して、倭国内の帰化人を取り込んで王朝転覆の算段を始めること必定なのだから。 そう考えると、この事績を太安万侶はどう見ていたのか大いに気になるところ。 ただ、新羅と倭の関係は、以下の年表をざっと見れば、感覚的にわかる。小中華思想の書であるにもかかわらず、倭人が初期王朝の王だったりするところが不思議だが、中華王朝のコンセプトに倣ったというべきだろう。・・・ [金富軾:「三国史記」1145年卷一新羅本紀第一〜卷三新羅本紀第三] 《始祖赫居世居西干》 八年…倭人行兵欲犯邊 三十八年春二月…倭人無不畏懷 《南解次次雄》 十一年…倭人遣兵船百餘艘掠海邊民戶 《脫解尼師今》:多婆那國@倭國東北一千夏五月與倭國結好交聘 十七年…倭人侵二木出島 ・・・当初から、倭人侵略を強調。 中華帝国属国化を図る目論見であろう。 [支援を受け半島の一大勢力化実現] 《祇摩尼師今》 十年夏四月…倭人侵東邊 十一年夏四月…都人訛言倭兵大來 爭遁山谷 十二年春三月…與倭國講和 《阿達羅尼師今》 五年春三月…倭人來聘 二十年夏五月…倭女王卑彌乎遣使來聘 ・・・史書で新羅の存在自体が認知されていない。 史書に合わせた"卑彌乎"記載としか思えない。 《伐休尼師今》 十年六月…倭人大饑 來求食者千餘人 《奈解尼師今》 十三年夏四月…倭人犯境 《助賁尼師今》 三年夏四月…倭人猝至圍金城 四年五月…倭兵寇東邊 四年秋七月…伊飡于老與倭人戰沙道 乘風縱火焚舟 賊赴水死盡 《沾解尼師今》 三年夏四月…倭人殺舒弗邯于老 《儒禮尼師今》 四年夏四月…倭人襲一禮部縱火燒之 虜人一千而去 六年夏五月…聞倭兵至 理舟楫 繕甲兵 九年夏六月…倭兵攻陷沙道城 命一吉飡大谷 領兵救完之 十一年夏…倭兵來攻長峯城 不克 十二年春…王謂臣下曰:「倭人屢犯我城邑 百姓不得安居・・・ 《基臨尼師今》 三年春正月…與倭國交聘 ・・・次代に、倭から婚姻関係を持ちかけられる。 中華帝国との板挟みになるから、 いかに誤魔化すかであろう。 どう対応しようが、中華帝国無視は無理筋であり、 人質や婚姻による一時的厚誼はあっても、 とどの詰まりは、ご破算しかなかろう。 《訖解尼師今》 三年春三月…倭國王遣使 爲子求婚 以阿飡急利女送之 三十五年春二月…倭國遣使請婚 辭以女旣出嫁 三十六年春正月…拜康世爲伊伐飡 二月 倭王移書絶交 三十七年…倭兵猝至風島 抄掠邊戶 又進圍金城急攻 王欲出兵相戰 《奈勿尼師今》 九年夏四月…倭兵大至 王聞之 恐不可敵 造草偶人數千 衣衣持兵 列立吐含山下 伏勇士一千於斧峴東原 倭人恃衆直進 伏發擊其不意 倭人大敗走 追擊殺之幾盡 三十八年夏五月…倭人來圍金城 五日不解 將士皆請出戰 ◆◆◆この辺りで5世紀突入と考えられる。◆◆◆ ◆◆◆[18]水歯別命/反正天皇の崩御は437年[丁丑]60歳。◆◆◆ ◆◆◆[19]男淺津間若子宿禰命/允恭天皇の崩御は454年78歳。◆◆◆ 文献上で、国家として認知できるのは、377年高句麗に伴われて前秦に朝貢。[@「資治通鑑」]中華帝国>高句麗>新羅という位置関係にあったことになる。これ以前に国家体制が整っている訳もなく、記録は中華帝国側残存の断片しか有りえず、一地域がら出発して半島南部を制覇するに至った口誦伝承を、中華帝国の史書に合わせ、小中華思想で著わしただけと見てよいだろう。 《實聖尼師今》 元年三月…與倭國通好 以奈勿王子未斯欣爲質 ・・・すぐに戦乱だが、友好的外交が始まったようだ。 四年夏四月…倭兵來攻明活城 不克而歸 王率騎兵 要之獨山之南 再戰破之 殺獲三百餘級 六年春三月…倭人侵東邊 七年春二月…王聞倭人於對馬島置營 十四年八月…與倭人戰於風島 克之 《訥祇麻立干》 二年秋…王弟未斯欣 自倭國逃還 ・・・王弟未斯欣、倭国より逃げ還りき。 十五年夏四月…倭兵來侵東邊 圍明活城 無功而退 二十四年…倭人侵南邊 掠取生口而去 二十八年夏四月…倭兵圍金城十日,糧盡乃歸 《慈悲麻立干》 二年夏四月…倭人以兵船百餘艘 襲東邊 進圍月城 四面矢石 如雨 五年夏五月…倭人襲破活開城 虜人一千而去 六年春二月…倭人侵歃良城 不克而去 王命伐智 コ智 領兵伏候於路 要擊 大敗之 王以倭人侵疆埸 緣邊築二城 十九年夏六月…倭人侵東邊 王命將軍コ智擊敗之 殺虜二百餘人 二十年夏五月…倭人擧兵 五道來侵 竟無功而還 《照知麻立干》 四年五月…倭人侵邊 八年夏四月…倭人犯邊 十五年秋七月…置臨海 長嶺二鎭 以備倭賊 十九年夏四月…倭人犯邊 二十二年春三月…倭人攻陷長峰鎭 ◆◆◆この辺りで6世紀突入であろう。◆◆◆ ◆◆◆任那諸国滅亡はこのずっと後になる。◆◆◆ 《眞興王@卷四新羅本紀第四#3》 二十三年(562年)九月…加耶叛 王命異斯夫討之 三面の綱渡り外交で、百済・新羅・倭に朝貢していたと思われるが、百済が侵攻し新羅に大打撃を与えて事実上領土化したため、新羅が属国を取り戻したということになろう。 上記の年表はかなり後世の作であるし、中華帝国側が朝鮮半島への過去の係わりに関心を失っていく頃なので、ママ受け取ると間違うので要注意である。しかしながら、新羅-倭間の関係は中華帝国-倭の関係により従属的に変動していたことを反映しているとの見方には合致するものと言えよう。 太安万侶がその辺りの状況を知らない訳もなく、白村江の戦いの史書での位置づけを理解していた筈で、その時点で倭が朝鮮半島の宗主権喪失したと見ていたと思われる。朝廷はそれを公認しない姿勢を貫いたのだろうから、その辺りを勘案して、新羅の話を入れ込んだ可能性はありそう。・・・[19]代で、ようやくにして、現実認識が可能な政治状況になったということかも知れない。 (C) 2021 RandDManagement.com →HOME |