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■■■ 「古事記」解釈 [2021.4.26] ■■■
[115] 神話扱いはお勧めできない
「古事記」を"神話集"として読むのは止めた方がよいと思う。
もちろん、どう読もうと好き好きであり、わざわざそんなことを言う人は滅多にいないから、自分も含めての留意事項である。

そもそも、"神話"の概念がはっきりしていないこともあるし。と言うか、概念の違いに無頓着にならないように注意した方がよいだろう、ということ。
昔話とどこが違うのか、伝承されている理由は、収録の取捨選択はどうなっているのか、等々、気になることは色々ある筈だが、そこらを整理せずに"神話"として扱うのは余りに雑と言わざるを得ない。

それと、もう一つは、著者の考え方を知ろうという気が全く無いからこそ、このような読み方になっている点も問題である。
[33]推古天皇代も神話の時代と考えるなら別だが、一貫した書を、部分だけ取り出し、その書の本質とみなすような扱いがされている訳だ。

どうしてこうなるかと言えば、神話と見なせない箇所の解釈を避けたいからでは。

その辺りは、バラバラな事績に分割し、個別事象を抽出して評価し、歴史として再構成する方法論を用いる解釈だらけだから、同一次元で語りようが無いのである。
それは当たり前で、こうした方法論は史書で使うべきものなのに、史書でないのにそれを持ち込むのだから、議論などできる訳がない。
このような分析を始めてしまえば、「日本書紀」には記載されていない一書として、追加文書として扱っているのと同義。
(そもそも、「日本書紀」に収録されている、一書としての断片的文章とは、本文の正当性を高めるために体系化されていると考えるべきもの。そのようなものを用いて再構成する意味が小生には理解できない。)

と言うことで、先ずは、「古事記」の著者に対して敬意を払う必要があるのでは。
但し、そう言うと誤解を生じかねないのが日本の社会。冒頭から末尾まで、"○○の著作の何処何処に書かかれている通り、・・・"という文章だらけの本が多かった時代を覚えているからだ。それが日本の教養路線の実態であり、小生には耐え難かった。

マ、それが日本の風土と言ってしまえば身も蓋も無いが。
(「酉陽雑俎」を怪談オンパレードの奇書として紹介したり、「今昔物語集」を面白昔話ピックアップ本とか仏教説話集と見なすのである。どのように評価しようと個人の自由だが、著者の主張を無視しているのは間違いなく、小生の眼から見れば、歪曲して伝えたいイデオローグだらけに映ることになる。
しつこく書いているが、前者は、鷹飼育の蘊蓄話、荒廃寺院巡礼記、入墨美検討、異国の植物動物情報、仏教道教の精緻な異界像描写、等々を出典を示して記載した書。後者は、大半は仏教に絡む他所からの引用話だが、僧の奇行悪行もふんだんに登場するし、世俗の伝承譚やミニ歌集も収録されているといった状況。その特徴は、三国比較的に社会像の断面を描いていること。
なんといっても特筆モノは、あくまでも収集編纂しただけとの姿勢を貫いている点。
勅命で作られた「古事記」もそこは同じ。
と言っても、どれも情報収集叢書とは言い難く、個人が自分の意志で編纂した作品である。工夫して編纂すれば、主張を伝えるチャンスは十二分にあると考え、後世に伝えるべく全力投球していると見るべきだろう。
とは言え、それは簡単なことではない。
難癖をつけていると誹られたりすれば命の危険さえある社会だから、慎重に記載する必要があるし、おもねってしまえば主張は届かない。とてつもなく高度な知的作業が不可欠なのだ。言論の自由ということで、安易な作業に慣れ切った現代人にはそこらは全く理解できないかも。)


ともあれ、「古事記」は、当代随一の知識人でなければ、とても成立しえなかった書と考えるべきである。
例えば、・・・。📖四事績:箸墓継體大織冠大友@今昔物語の由来

従って、編纂者と称する著者が、どのように自らの主張を入れ込んでいるか考えることこそが、読書そのもの。
太安万侶も、それが期待できる人を読者として想定している筈で、大衆向けに統治の正当性を喧伝することに力を入れている訳では無かろう。

読むなら、自分の"常識"に基づいて、「古事記」編集の方針を想定しておくべきだ。・・・

例えば、史書には満載なのに、「古事記」は仏教的な要素がほとんどゼロ。それを知っているなら、その理由を考えてから。はたまた、上巻は神話の書と言われながら、何故に下巻の後半になると、系譜しか記載しないのか。自分なりの仮説を立て、読んで行けば、変更を余儀なくされるかも知れないが、それこそが読書の醍醐味であろう。
こんなことに解答できないまま、個々の記述の意味を読み取ろうとするのは、無謀過ぎる。
このことは、"反論無し"の見方に従うのも考えモノということになろう。編集者の方針からすると、こう考えるべきとの論理が欠落していることが多いからだ。

こんなことをワザワザ書いているのは、以下の文章に出会ったから。・・・
「多くの人は『古事記』と『日本書紀』を似たようなものと考えがちだが、
 それは大きなまちがい。
 ふたつの書物はまったく別の意図をもって編纂されたと考えるべきで、
 その証拠が出雲神話とよばれるものである。」

[お嬢さんの三浦しをんさん曰く"古事記オタク"の、古代文学研究者 三浦佑之:「出雲神話論」講談社2019年の内容紹介【担当編集ノート】]
証拠もなにも、似たような書を同時期にわざわざ制作する訳があるまい。両書をごちゃ混ぜにしたいイデオローグを批判することがタブーだからだろう。
冒頭から全く異なる神が登場してくるし、高天原という用語がすぐに見当たらなかったりと、違いなど歴然なのだから。
しかし、こうした主張の本がベストセラー[「口語訳 古事記 完全版」文藝春秋2002年]になったところで、こうした状況は変わるまい。
これが日本の風土そのものだからだ。

もっとも、小生は序文を後世作と見ないので、三浦佑之説とは根本的に違う。序文こそ、太安万侶が一番読んでもらいたかった文章と考えるからだ。
つまり、三浦佑之説はある意味正しい。序文と本文は全く合っていないからだ。
要するに、それを太安万侶の仕掛けと見るか、見ないかの違いだ。
(注意すべきは、「古事記」は、西洋の神話のような、遺跡出土品ではない点。今もってインド亜大陸の人々の信仰を集める叙事詩同様、"生きた"宗教経典であり、代替書は存在していない。そのような書に部分的に偽書が入り込むことは考えにくい。序文が偽書なら、本文も改竄だらけか、偽書と考えざるを得ないということ。)

尚、「史書」に出雲神話無しなのは当然だと思う。
出雲大社は、古代信仰地域ではない場所の立地である点からして、出雲の扱いは微妙なものがある訳で。
誰でも驚かされるのは、「出雲國風土記」に登場する神々は「古事記」とほとんど一致しない点。しかも、別途、国造り譚まで収載されている。そんな書が同時代に、朝廷の命で作られたのである。
しかも、その著者は大和朝廷に伺候したと史書にはっきりと書いてある以上、それは中央の意向に反して書いた訳ではない。
そうなると、出雲神話なるものの原形などもともと無いと考える方が自然。太安万侶はそれを踏まえて書いたことになろう。

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