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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.12.6] ■■■
[附53] 四事績:箸墓継體大織冠大友
💣突然、脈絡無しに4題噺をしてみよう。

「古事記」と「酉陽雑俎」に目を通していると、どうしても語りたくなるのでご容赦のほど。
  📖古事記を読んで 📖段成式:「酉陽雑俎」の面白さ

この4ッだが、「今昔物語集」の末尾四譚を意味する。
-----最終譚グループ-----
[巻三十一#34]大和国箸墓本縁語📖箸墓
[巻三十一#35]元明天皇陵点定恵和尚語📖多武峰
🎏v.s.[巻三十一#36]近江国鯉与鰐戦語📖鯉と鰐
🌳[巻三十一#37]近江国栗太郡大柞語📖大柞 📖大友皇子鎮魂

と言うことで、「古事記」だが、33代天皇 豊御食炊屋比売命で完了し、以後の34代〜42代天皇の事績は「日本書紀」に頼るしかなくなる。
この時代は、前方後円墳終末期🈡そのもの。「古事記」後でなんといっても目立つのが、皇族の八角墳🈗📖桜井時代@古事記の歴史観

気になるのが、必ず注記がつく最後の部分。
 豐御食炊屋比賣命、坐小治田宮、治天下參拾漆
 戊子年三月十五日癸丑日崩。
 御陵在大野岡上、後遷科長大陵也。

干支日が記されているのは,この一番最後の推古天皇のみなのだ。それはそれで、そこからは史書にまかせますということかとなる。
そもそも、最後の部分は系譜と宮・御陵以外の事績だけしか記載されていないことだし。📖[33]小治田宮

ところが、この年である西暦628年の太陰歴では、3月15日の干支日は癸丑ではなく辛酉。同年3月の太陰歴で癸丑は7日。つまらぬ間違いが、時間軸で最新の部分で生じており、解せぬ。
ところが、「日本書紀」では3月7日と記載されていて、ピッタリ一致。流石に史書だけのことはある。

この論理、おわかりだろうか。
「古事記」は明らかに、これを示すため、ずっと書かないで来た干支日をここだけわざわざ入れたのである。つまり、集めた生情報は明らかに間違っていることがわかるが、改竄したりせずに、ママ記載しておりますよ、とはっきり伝えたかったのである。
当然ながら、史書はそうはいかない。矛盾しているとの指摘があれば、編纂者達の総意で対処することになり、癸丑を削除しないなら、3月7日に変更するしか、別の情報を使うことになる。
様々な情報を眺めた上で、都合の悪い箇所や相互矛盾を無くすために叡智を結集してお話が作られるのだ。
それはそれで価値があるが、Realityを反映しているとは言い難い。
100才と越える長寿の天皇だらけの「古事記」だが、それが"事実"であると語っているようなもの。明らかに、年の数え方が違う訳で、東征以前の宮があった地域での二期作農耕歴なのは自明である。ただ、暦の変更過程と、古代の倭暦についての情報が皆無なのでマルッキリの想像しかできず、これ以上どうにもならない。
  553年 百済「暦博士」招請
  604年 初日本暦@中務省陰陽寮
  690年 元嘉暦+儀鳳暦施行


余計な話をしているが、要するに、「古事記」や「酉陽雑俎」は事実を引用記載しているのである。どの書のどの部分を収載するかが肝であり、それこそが編纂者のもの見方を示している訳だ。読者はそのつもりで対応するように、ということ。

ところが、「今昔物語集」編纂者はその姿勢を採用していない。誤解を恐れず言えば、事実を引用記載しない方針。
従って、序など書ける訳もないし、著者名を知らせるなどもっての他。

流石、トップクラスのインテリということがよくわかる姿勢である。
「酉陽雑俎」の著者は、幼児から書籍の山に接し、かつ王朝の図書担当なのであるから、当代随一の知識を持っているし、「古事記」作者は本朝の超能力的記憶者から自在に王朝事績を引き出せることができたのである。
それに比べると、「今昔物語集」編纂者の手にできる情報はいかにも貧しい。しかし、そんな限られた条件のなかでも、最大限に情報を集めて、考え抜けば、想定できることは少なくない。つまり、事実をママ伝えず、勝手に変更することで、事績が示している本質を抉り出すことができると考えたのではないか。
もともとの情報にしても、すでに潤色されているだろうから、必ずしもママが意味あるとは限らないと判断したとも言えよう。

この方針でGOと決断すれば、それこそ自由自在に収録することができる訳だ。情報源が限られていても、それを嘆く必要もない。

そのように考えると、最終巻の最後には、"ご注意"としての、拾遺譚を持ってくるのでは。
・・・ということで、上記の4譚をあげたのである。

○<大友>近江国栗太郡の大木譚は、「古事記」にも出て来る古代の大木信仰を引きずるものだが、どう見ても、天武天皇の時代へと移行する様子を示した話である。本朝の時代の流れを見る場合、国際情勢と本朝統治の仕組みを考えるとここが結節点であるからじっくり考えて見よ、という指摘か。

○<大織冠>「今昔物語集」では滅多なことでは興福寺とは呼ぶことはなく、山階寺である。
  646年 蘇我入鹿討伐祈願成就
      …釈迦三尊・四天王造像し山階陶原家付属持仏堂に安置。
  669年 伽藍創建@大槻里(遺跡未発見)
      …近江大津京で重病に陥り妻 鏡女王の勧めで山階寺創建
  670年 葬儀
      …淡海之第で薨じ山階精舎で。
  672年 大和飛鳥浄御原厩坂に移転
  710年 淡海公 不比等が遷都直後に平城登大路に移転
      …興福寺と呼ばれるように。

その出自は「古事記」では確認できない。天の岩戸で結界をつくる天児屋根命を祖としているにすぎないからだ。しかも、武甕槌命(鹿島神宮)と経津主命(香取神宮)の守護神を掲げている。
これでは、様々な説がでてきておかしくなかろう。
さらに、阿武山古墳被葬者は明らかに大織冠であり、多武峰への名目的改葬がなされる理由もわからない。
それに、もともと、大中臣氏は中央政権で祭祀を司っていた氏族であり、突然にして仏教帰依者として力を発揮するという流れも理解しにくい点である。
  <神官頭/神祇伯>
  _644年 中臣鎌足[任→辞(仏教帰依)]
  _653年 忌部佐賀斯
  _690年 中臣大嶋…大嘗祭初記載
   :(大中臣 巨勢 石川 文室 多治比 藤原・・・)
  _701年  (大宝律令:神祇伯)
  _861年 中臣逸志
  _876年 棟貞王(王家)
  1165年 顕広王(白川伯王家)


○<継體>「鯉 v.s. 鰐」とは随分と古層らしき話だが、近江で大権力闘争が発生し、内乱状態になりかねない事があったことを示唆している話として収録したに違いない。
ただ、鯉と鰐というトーテムは本朝は馴染みが薄い印象を与えるが、海外侵略や代理的対立があったとも思えない。
そうなると、ありそうなことは継体天皇の頃の皇統問題を指していると考えるのが自然ではなかろうか。

そして、モチーフのネタ元だが、呉越の鯰 v.s. 鰐の抗争というところか。
 "被髮文身,錯臂左衽,甌越之民也。
  K齒雕題,縫,大呉之國也。"
 [「戰國策」趙策二]

これだけではわかりにくいが、越のトーテムは揚子江鰐で、「古事記」の海神の流れを汲む。
一方の呉のトーテムは大鯰。([=]冠を被る。コンデルタ土着民クメール/高棉がメコン大鯰/巨無齒𩷶系をトーテムとしているのと似ている。)📖なまず
本朝の古代戦歌でもある来目歌/久米舞の由来は東人で、久米島民や久米@肥後球磨出自とも考えられ、本来的には越系ではなく、呉系なのであろう。
  會稽海外有東人分為二十餘國又有夷洲[台湾]及洲  [「後漢書」倭伝]
鯰が鯉とされてしまうのは、鯉が鱗魚“里”であるからで、鬚があって縦縞模様の鯰の一種を指す名称である。コイは、後付である。(ちなみに、鱗が縦36枚なので1里は36町となるとうのが鯰の民の解釈。)
つまり、琵琶湖の鯰軍団に対して、古き頃からの久米軍団が対立したが、結局のところ鯰が勝利したというのであろう。
確かに、この辺りの皇統争いはわからないところが多すぎる。📖[26]伊波禮玉穂宮

○<箸墓>は古墳前期の早い時期の大型古墳である。盆地のバラバラだった部族が、天皇直系と係累の豪族の連合体として、一つにまとまった時期だと思われる。
📖山の辺の道時代(盆地内)

「今昔物語集」での、本朝の記述は聖徳太子から始まるというのに、えらく古い話を突然持ちだす理由は、神仏習合についてのご注意だろうか。
本朝に於ける祭祀に於ける、神と仏の違いは小さなものではないからだ。仏教では造像し尊崇対象にするのは大いなる善行だが、神像はそういう訳にはいくまい。崇拝対象はあくまでも依代で、自然のなかに神が宿っており、その姿は見てはならない。蛇の姿など、見てしまえば死が待っている。
コンセプトとしての、神仏習合は可能だが、物理的な神像としての習合には無理がありすぎる。

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