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■■■ 「古事記」解釈 [2021.5.26] ■■■
[145] 愛媛=㤅比賣のエは呉音で非訓
"愛"の読みを並べたが📖最初の三角関係譚の意味、音は原則アイのみらしく、オもあるとする辞書/事典は例外的らしい。用例が見つからないのだろう。エも、愛媛以外はマイナーな地名しかないようだから、音として記載するに至らずか。しかし、エは用例が存在するが音とされていない以上、ナンデモ読みの文字としての訓扱いしかできないことになる。
しかし、海外では、粤語/客家語で"oi"だし、呉越語で"e"とされている。

そもそも「古事記」では、愛は発音表記文字として用いられており、エは呉音と見て間違いなかろう。
  伊豫國謂愛比賣【此三字以音】

文字の成り立ちからすると、愛=㤅[=旡(満腹で溜息)+心]であり、エ姫に、どうしてこの文字を用いたかはわからないが、もともと愛=エとして、交歓の際の詞として用いられたのと同一センスなのだろう。・・・
伊邪那美命 先言 阿那邇夜志 愛袁登古袁[エヲトメヲ]
後 伊邪那岐命 言 阿那邇夜志 愛袁登賣袁[エヲトコヲ]
・・・
於是 伊邪那岐命 先言 阿那邇夜志 愛袁登賣袁[エヲトコヲ]
後 妹 伊邪那美命 言 阿那邇夜志 愛袁登古袁[エヲトコヲ]
常識的に考えれば、素敵な乙女・素敵な男という、男女が掛け合う感嘆詞ということになろう。
(我々が考える愛の概念が、「古事記」成立時代にも通用する保証は無いので注意が必要。西洋概念の翻訳用語である"愛人"という言葉の影響が余りに強いからだ。しかも、この用語が移入されたので、大陸での愛の定義が変わってしまった。ただ、洋語の使用場面が違っていたため、片や情婦/情夫で、もう一方は配偶者と全く異なる用例しかない。)

ところが、どういう訳か音の表記だけでなく、訓読み文字として、伊邪那岐命と伊邪那美命の掛け合い言葉にも使われている。國學院大學のサイトでは、<愛(うつく)しき>とされている。

愛の訓読みはまだまだあったのである。
 うつく-し≒美し…調和がとれていて申し分ない
  e.g. うつくしきもの。瓜にかきたる稚児の顔。@「枕草子」
     父母を 見れば貴し 妻子見れば めぐし愛し[宇都久志]@「萬葉集」巻五#800
     愛しと 我が思ふ妹を 人皆の 行くごと見めや 手にまかずして@「萬葉集」巻十二2843
     我が背なを 筑紫へ遣りて 愛しみ[宇都久之美] 帯は解かなな あやにかも寝も@「萬葉集」巻二十#4422
     三寸ばかりなる人、いとうつくしうて居たり。@「竹取物語」
"美"は音表記文字として、伊邪那美命を初めとして至るところで多用されているが、訓には使われていないのだろう。
その訓を当てていることになる。

前述した"愛"の由緒的意味からすると、精神的に満ち足りたということなので、ニュアンスが異なっているようにも思えるが、どうなんだろう。さらに、漢語として伝わって来た場合、儒教的用語の"愛人"という用例で理解していたと想定することになろうが、それともかなり異なるのでは。
そういう意味では、男女ではない、以下の2用例の方が"愛"の意味が分かり易かろう。
○以爲咋破呉公。唾出而。於心思愛而寢。
○於是阿遲志貴高日子根神。大怒曰。我者愛友故弔來耳。何吾比穢死人云而。拔所御佩之十掬劔。切伏其喪屋。


"美"の解釈は極めて重要だと思うので、どうして配偶者同士が"美し"と賛美し合うのか、十分納得してから、このほとんど定説化している解釈に従うべきと思う。
よく知られていることだが、倭の風習と似たところがある中国南方の少数民族のいくつかには、ヒト創造対偶神(捻じれて交わる蛇体が基本)の伝承があり、そのモチーフとの重層がありそうと考えるなら、"美し"がはたして妥当か考える必要があろう。
神避坐⇒慟哭が、ストーリーの頭に配置されているところから見て、太安万侶と稗田阿礼は喪葬儀歌謡の原初について議論しながら、ここらを纏めたと思われるからでもある。
故伊邪那美神者 因生火神 遂神避坐也・・・
故爾伊邪那岐命詔之
愛我那邇妹命
・・・
追往黃泉國 爾自殿騰戶 出向之時
伊邪那岐命語詔之
愛我那邇妹命・・・
爾伊邪那美命答白 悔哉 不速來
吾者爲黃泉戶喫 然
愛我那勢命
・・・
度事戶之時
伊邪那美命言
愛我那勢命 爲如此者 汝國之人草 日絞殺千頭
爾 伊邪那岐命詔
愛我那邇妹命 汝爲然者 吾一日立千五百產屋 是以一日必千人死 一日必千五百人生也

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