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■■■ 「古事記」解釈 [2021.6.24] ■■■
[174] 三国の男女関係観が見えて来る
ユング・フロイト論を気にかけると[→]、インターナショナルな視点から古事記の特徴が見えて来る。
但し、それは「今昔物語集」に触れているからかも知れぬ。この編纂者は、文化的な違いから三国に分けざるを得まいと考えており📖、極めてインターナショナルな視点で眺めているからだ。(もっとも多くの解説は、朝鮮半島を初め他国を無視しており、日本国が中華帝国や天竺の大国と並ぶ強国であるという発想で書かれているとされている。小生は、朝鮮半島は当初から中華帝国の隷属的地域以外の何物でもなく、樹立された国家は儒教ベースの小中華思想が基盤であり、取り上げる意味は極めて薄いと考える。史書の副読本ではないのだから。)

【天竺】-【震旦】-【本朝】で男女関係を考えると、その違いは余りに大きいと言わざるをえない。

【本朝】での初の性行為は、高天原の神々のなかから国造りのために派遣されることになった男女神の営みである。
実に即物的。男女の凸と凹の違いを互いに自分の身体で確認し合ってから、合意形成の上に、自発的に礼儀をこしらえて交合に至る。
しかし、恋愛感情が欠片している訳でもない。
国生み・神生みの最終局面で火の神を生んだために大火傷し女神は黄泉の国に行ってしまうと、取り残された男神は、突如感情をむき出しにして、妻がとてつもなく恋しくなる。その感情を抑えきれなくなり、ついには亡き妻が居る異界の地訪問。それでなんとかなるものではないのは当然だろうに。
混沌として宇宙から最初に顕れるのは、神々の場の誕生を意味していそうな抽象神であるにもかかわらず、男女間の恋愛感情のような観念の抽象神化には進まないのである。
男女間関係の神は、密教が立ち上がって、そこで登場することになる。・・・愛染明王(両部曼荼羅には無い。)と荼枳尼天(シヴァの神妃 カーリーの眷属ダーキニー)である。

【天竺】と比較すると、【本朝】の男女関係は極めて淡泊と言ってよいだろう。インドには古代から性愛論書「カーマ・スートラ」が存在しており、原初から愛欲の世界を、単なる情欲とは見ず、崇高な精神とする観念が出来上がっていたらしい。人生の意味は、カーマ(性愛)+ダルマ(聖法)+アルタ(実利)とされていたというから、極めて大きな部分が、"性愛"ということになろう。

従って、愛欲の神/カーマ デーヴァKamadevaは原初的な存在と見てよいだろう。但し、叙事詩によって、❶〜❺のような異伝があり、その位置付けは極めてわかりにくい。

ダルマ(宇宙の法≒正義)
└┬△シュラッダー(信仰)

└┬△ラティ(快楽)
└┬△プリーティ(喜び)

ヴィシュヌ
└┬△ラクシュミ(乳海女/水連)


ブラフマー
└┬△n.a.

┼┼┼
シヴァ
┼┼
┼┼…シヴァの眼光一発で瞬時焼失(苦行者の邪魔)
┼┼
└┬△パールヴァティー
┼┼┼
○クリシュナ
└┬△ルクミニー

❺←┘…再生
…海に投棄され魚に食われ、魚は捕獲される。
└┬△[給仕女&養母]マーヤーヴァティー≒[前世]ラティ

【震旦】は、全く異なる様相を見せる。

愛欲は崇高なものというより、実利的なものとして捉えているように見えるからだ。
儒教は宗族第一主義に徹すると、それは避けがたかろう。一族の血統を絶やさないための婚姻こそが最重要命題なのだから。恋愛に意義を見出す必要はないと言うより、宗族繁栄にとっては、邪魔な観念と言っても過言ではない。ミクロでは、多かれ少なかれ、実利的婚姻はどの社会だろうが避けられないから気付きにくいが。

その点で、儒教国家では、同一姓内での婚姻は禁忌であることに注意を払う必要があろう。【本朝】のような近親婚は発生しないので、表面的にはより開かれた恋愛状況に映るが、精神的自由度から見れば全く逆と見た方がよい。中華帝国における愛情とは、婚姻関係を壊さないための合理主義的な姿勢以上ではない。
要するに、自己表現である情愛と社会システムの根源である宗族繁栄は対立的観念を生み出すので、儒教信仰に於ける男女交合の意義が特異的なのである。両者は明確に峻別されるべしということになるから、性愛は崇高との発想は生まれようがなかろう。
従って、道教の房中術(性技)のような、極めて功利的な長寿実現のための交合観が生まれてくる。できることは限られているから性技自体は万国共通だろうが、房中術が目指すは、男系維持の任を負う宗族主の長命でしかなく、生命の躍動としてのカルマとは根本的に異なる。
当然ながら、反儒教感を滲ませた、フィクションの自由意志の世界で遊ぶ文芸が生まれることになろう。科挙に基づく官僚制度が恋愛小説を生み出す温床となるのは当然のことで、恋愛とは儒教国の社会の実相からはかけ離れたものでしかない。

【本朝】は、国家制度導入に伴って官僚統治の根本概念として儒教のルールを取り入れたが、こうした儒教的男女関係の観念は徹底的に排除し続けて来た。祖先崇拝は万国共通であるが、倭国は儒教信仰の根幹たる宗族第一主義を受け入れなかったということ。
道教ベースの観念に基づいた房中術など全否定と言ってよいだろう。・・・花は咲いてこその自己表現であり、だからこそ愛でることに意義があるとの考え方。散るのは致し方なしという思想が綿々と受け継がれているのはご存じの通り。仏教の輪廻観と親和性があるが、それとは異なる。
頑固に固まった思想は強くて何千年も継続するだろうが、日向初代(天津日高日子番能邇邇芸命)からして、あくまでも木花之佐久夜毘売/神阿多都比売を愛されのであり、繁栄と長寿を約束してくれる石長比売を選ぶことはなかったのである。中華帝国的男女関係を受け入れる気など更々無いことがわかる譚と言えよう。
それに、倭では、近親婚は禁忌どころか慣習に近かった。同姓婚姻禁忌という管理システムは肌合いが合う訳がなかろう。同腹兄妹婚は禁忌だったが、「古事記」の記述は、恋愛小説のような、美しい悲恋譚に仕上がっており、滅多にありえないこととはいえ、全否定されるべき関係ではないとの雰囲気が存在していたことが感じられる。

ついでに、【天竺】における婚姻についても、信仰に基づく社会システムの観点から触れておこう。

現在のインド社会は、男系の大家族制とされることが多い。この結果、花嫁を商品として購入するが如き風習が今もって続いているとの解説を見掛けることも少なくない。間違いとも思えないが、この見方だと、本質から外れてしまいかねない。
"生業"に好都合なら、大家族制になるが、核家族もあり得ると考えるべきだからだ。ベーダ教信仰は、"生業"階層社会をもたらしている。例えば、教義研究者、コック、はカースト最上位に属することになろうが、それぞれ"生業"の一つの"クラス"を意味しており、その種類は社会運営を考えれば1,000を下ることはないだろう。それぞれ閉じた"クラス"であるが、生活上、密接で不可欠な相互依存関係にある。

従って、この社会で生きていくためには、同業者助け合いの構造構築は不可欠で、親戚≒同業≒"クラス"とならざるを得ない。親しき交流は、邑内同業者ありきにならざるを得ず、日本的な村的隣組意識の醸成は難しい。みかけ土着であっても、日本のような意味での土着ではないからでである。

どうしても、婚姻は、原則、"クラス"内になってしまうが、ネットワークを強化する必要があるから、できる限り狭い婚姻関係を避け、広くして、相互扶助関係の強化を目指すことになろう。

バラバラな分断社会ということになり、現代社会の視点からすると"クラス"間での角逐が生じて不安定になりがちに見えるが、"生業"の大規模かつ急激な新陳代謝が発生しない限り、錯綜した相互依存関係がある以上、マクロでは自動的に社会が安定する方向に進む構造になっているので大事にはなりにくい。
換言すれば、このような各"クラス"にとっては、カースト観念ほど好都合なものはなく、反カースト階級闘争観など、ドンキホーテ的夢想と言えよう。

多かれ少なかれ、このような"生業"的"クラス"観は、現代社会でも生まれるので、ここらはどうしてもわかりにくくなる。インドの特徴とは、それが共通の叙事詩信仰ベースとなっている点が異なる。各"クラス"内の人々の絆となっているのは、この神々の活躍する世界。登場する神や名称、筋や場所はそれぞれ違うことになる。もちろん、生きた神話であり、話は変化し続けることになる。もちろん語り手の元情報提供者は別なバラモンに属す"クラス"だが、聞き手が好む話に次第に変わっていくことになろう。

あくまでも、こうした叙事詩という土台の上での恋愛謳歌。人々の実生活は、生きている神話の世界の中にあると言えるかも知れない。インド映画は恋愛とハチャメチャ騒動が滅茶苦茶に詰め込まれているだけで、筋がさっぱりわからぬと言われることが多いが、それも当然。
崇高な神像を拝む場を作る必要などほとんどない。叙事詩に基づく祭祀"生業"の"クラス"から頂戴したお墨付きならペラ紙一枚でも十分過ぎるからだ。そこには神話が凝縮されており、男女共にそれを頭に描くことができる。神像安置など異文化導入以外のなにものでもなく、祭祀場に必要なのは、叙事詩を彷彿させるシンボルだけで十分。表現に凝りたいならお話の場面を建物の壁や通路に展示し気分を盛り上げることになる。尊崇対象の神像に見えても、それは神話の世界に入り込むためのもので、その中に入り込んでから、頼み易い神に祈ることになる。
男女の恋愛では、こうした神話の世界の共有ありきとなる。だからこそ、男女が一体化してカルマを謳歌できるのであり、そこに命の意義を見い出せる訳だ。

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