→INDEX

■■■ 「古事記」解釈 [2021.7.17] ■■■
[197]ギリシアの神々を眺めて
ギリシアの火神のコンプレヘンシブ性について触れたが、大自然の山・海・空:土といったものが神々の多神教であり、そこらは倭と似たところもあるので、全体像についても触れておこう。
  📖竈神はインターナショナルな視点で眺めたい

但し、それは簡単に書けるものではない。
ギリシア思想は奥が深く、素人が取り付く島もないからだ。

しかし、軽い気持ちで眺めるとそれなりにわからないでもない。
いかに思索しようが、所詮は自然観が土台。そう思って、どう考えているのか探ればどうということもない気分になってくるからだ。

簡単に言えば、ギリシアの信仰は、万物に神宿るということ。言い換えれば、静止状態は死を意味するというに過ぎない。書いてしまえばなんということもないが、葦牙に生命感を見るのとは、感覚が違うと見た方がよさそう。そう思ってしまうのは、万物には根源/アルケーがあり、それは実体からなるという考え方が基層にあるからだ。・・・。
 タレス:"水"
 アナクシメネス:"空気/アエール"
 ヘラクレイトス:"火/ピュール"
 クセノパトス:"土"
  ⇒アナクサゴラス:"種子/スペルマタ"
   ⇒デモクリトス:"原子/アトモン"
上記の用語はすべて生命体を意味しているので、現代用語の感覚とは違う。例えば、空気という概念を「古事記」に当て嵌めれば、鼻から生まれた神なら息を意味し、それは暴風を起こすこともあると言うことになる。
ともあれ、これらの根源となるモノの動きには、何らかの意思あるいは、目的があると見なされることになる。

ここら迄は、比較的理解し易いが、ギリシアではこれらを思弁的に解釈するので、一気にハードルが上がる。

と言っても、世界にはなんらかの秩序がある筈と考えるなら、いかにもありえそうな考え方が提起されているに過ぎない。これらの動きを規定する何らかの原理があろうとの主張。個々には難しくて論評などとても無理だが。
 アナクシマンドロス:"無限なるもの/アペイロン"
 エンペドクレス:"愛憎/ピリア・ネイコス"
 ヘラクレイトス:"ロゴス"
 ピタゴラス:"数"
  ⇒プラトン:"イデア/実在形相"
    ⇒アリストテレス:"個物形相+天上界&地上界"
宇宙は生命に満ち満ちており、そこには神も人も含まれている。ところが、滅茶苦茶にはならず、調和を見い出すことができるのだから、秩序の源泉がある筈という理屈だろう。
従って、聖書の民が規定するような、絶対唯一神が存在する余地はどこにもない。超自然など有りえないのだから。

ギリシアには科学らしき話が多いが、自然を対象とし、その原理をみつけようという西洋科学とは立場が全く異なっており、似て非なるものと言えよう。

言い換えれば、とどのつまり、"世界は究極的輪廻状況にあり。"というのが、基本思想とならざるを得まい。
水が始原的実体なら、秩序原理に沿って色々と生成変化するものの、最期には再び水に戻って行くことになるからだ。世界は、単に、有機的に繋がって動いているだけ。
この世は生々流転するだけで、すべては忘却のかなたに押しやられて行くとの、実にそっけない姿勢。

思弁的な人達だから、おそらく、海、川、泉、山、森、野、の名称とは、各ポリスでの神名そのもの。言語的交流上統一神が必要となって代表神名が生まれたのだろう。すべて生命体であるから、必ず男神か女神。統一できそうにないなら、しかたなく中性ということに。その中性名詞だが、生命体とは言い難い抽象概念が誕生してからの言葉の可能性が高かろう。
それを考えると、原初の"混沌"とは元素が無い空虚そのものという意味であって、それは生命体ではないから神と見なすべきではなかろう。もちろん、中性名詞。もともとは存在しておらず後付けの可能性が高そう。
「古事記」の混沌的な海状況とは全く異なる。
自然神が並ぶのだから、山野を後背地にした湊に定住する兼業の里海海人の信仰そのものだが、本来なら注目されてしかるべき、海人の船や潮、守り神が出てこない。・・・デウカリオーンの方舟(ノアの洪水生存譚と同一モチーフ)とアルゴー船(船大工建造の金羊毛取得冒険用巨大船)。

エーゲ海に燦燦と注ぐ太陽の光という情景に反して、その性情は暗いというか、敵対的な海での昏い話しか生まれまい。オリンポスの聖火に明るさなどなかった可能性さえあろう。

人口の過半が奴隷だった可能性が高いのが、ポリスの構造。ポリス間の戦闘があるため、奴隷反乱の危険性を孕んだ仕組みと言えよう。奴隷数拡大と兵力増強の好循環が続けられなくなると、不安定化必至である。
しかも、王権や神権という統治モードでポリス統合が図りにくい信仰であるから、多島海域で入植地が飽和すれば消え去る運命にあったと言えそう。・・・ギリシア信仰とは、ある意味、輪廻的運命論であって、それを受け入れたくはないが、どうにもならないというもの。だからこそのギリシア悲劇。
「古事記」ではありえない発想と言えよう。

中華帝国の存立基盤は天帝-天子という神権・王権の根拠提示にあり、その権威付けのための王朝史編纂となるが、ポリスの神々信仰を続ける限り、その方向には進みようがない。

 (C) 2021 RandDManagement.com  →HOME