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■■■ 「古事記」解釈 [2021.7.18] ■■■
[198]ギリシア-ローマの体制を参考にすると
ギリシアの風土を考慮してその信仰の根を検討してみたが、ローマについては最期に一言ふれただけだった。
  📖ギリシアの神々を眺めて

両者の神話はほぼウリであり、時として混淆した解説がなされるほどで、ギリシアのゴチャゴチャ感がさらに増幅されることになり、素人には悩ましいものがある。

ギリシアはエーゲ海の印象が強いので、ローマはそれに連なる地中海文化の雄としてのイメージが自然と形成されてしまう仕掛けと見てよいだろう。確かに、それはその通りではあるものの。・・・
ローマの先住民は不明である。
渡来民が本拠としたのは半島側ではなく、西の島で出先か。

[エーゲ海]レムノス島[伊]エトルリア(n.a.-前753)
そこへ、トロイで敗退した彷徨勢力が入って同居。
[アナトリア]トロイ島嶼域[チュニス]カルタゴ[伊]ラティウム
発祥はエトルリア王国と呼ぶべきだと思われる。
 王政ローマ(前753-)⇒共和政ローマ(前503-)
異民族国家統治モデルが導入された。
     ⇒ローマ帝国(前27-1453年)
ただ、竈神で触れたように、ギリシア信仰はどう見ても海人のものではなく、反海神的雰囲気さえ醸し出している。支配層の出自は遊牧系である可能性が高そう。そのため、海洋文化的に描かれてしまうと、そこらが見えなくなってしまう。
要するに、手あたり次第海兵で侵略し、富の源泉たる奴隷を獲得し、入植していくというのが、ギリシアの海文化の本質。もともと、この地でバラバラと里海生活をしていた海人の自然信仰の神々は元来の信仰対象とは違っていそう。

語族的に見ると、インド亜大陸に入ったアーリア系遊牧民の系譜に連なっているのがギリシア語。エーゲ海のギリシア対岸は、小大陸アナトリア(トルコ)だが、沿海部に進出しポリスを作った程度で、全くの別文化圏。このことは、内陸北部からギリシアに入って来たと考えるのが自然だ。

繰り返しになるが、遊牧⇒移動⇒農牧林兼の流れで、里海生活の海人達の居住圏を侵略し、覇者として君臨したと考えると、海は漁労対象域と言うよりは、侵略と交易のための経路以上ではなかっただろう。

古代の生産性を考えると、豊かな生活が約束される地であり、お得意な家畜マネジメントをそのまま奴隷マネジメントに転換するだけで統治可能なので、まさに楽勝といえるのではなかろうか。
【印欧系言語】
ゲルマン・ケルト
トカラ
↑内陸
┌┤ケントゥム系
││↓地中海
│├ヘレニック(ギリシア・ミケーネ)
│└イタリック
┼┼├・・・
┼┼│┌古ラテン(文語系)
┼┼└┤
┼┼┼└俗ラテン(口語系)→伊・仏・西・葡

│┌天竺・ペルシア
└┤サテム系
バルト・スラブ
ただ、楽勝な環境であるといっても、エーゲ海沿いは地勢的に里海生活の適地は限定的で拡張はすぐにできないから、人口が増え過ぎたり、強大な武力勢力が登場してくると、ポリス社会の安定性は一挙に損なわれる。
従って、ポリス乱立抗争モデルでは早晩経済的に成り立たなくなるのは自明。安定化させるためには、統合国家を樹立が必要だから、本来なら王国化必至だと思うが、その方向には進まなかったようだ。

おそらく、イタリア半島に移住したレムノス島とトロイの出身者達は、それに早くから気付いていたのだろう。軍事力不足で叩きだされて流れ着いたせいもあろう。
しかしながら、こと信仰ということになると、出自のポリス型の神を引きずらざるを得なかったようだ。そうなると、神権や王権の正統性を裏付ける信仰ではない以上、齟齬発生は避けられない。結果、王政はあえなく終了ということか。

軍事力が突出していたようで、疑似ポリス型政治は一応の成功を収めたようである。ただ、ポリス型が成り立つのは、あくまでも同一言語・類似信仰の領域であり、流石に、この体制で多民族型統治へと進むのは無理が過ぎよう。
膨張政策をとるなら、圧倒的な武力を誇る強権的独裁国家樹立を図るしかない。皇帝-諸国王という制度は、生まれるべくして登場してきたと言えるのでは。そうなると、ポリス型信仰はこの体制には邪魔となる。皇帝の地位を裏書きする信仰への改宗は避けられまい。

本来的には、ギリシアの統治者は、里海海人の自然信仰とは無縁であり、先祖返り的に部族絶対神モデルを用いて、帝国唯一神にすることを決めたと考えると、納得できる流れが見えてくる。
実に大胆な転換だが、ギリシア的思弁からくる合理主義に染まっていれば、改宗を躊躇することはなかろう。信仰の糧だった叙事詩は宗教から外して、文芸化させればよいのだから。
(文芸の最高峰はギリシアであって、信仰はローマということ。有閑階級は文芸論理に明け暮れて結構であり、独裁舎の命を津々浦々にまで伝え実行させる体制の裏付けとなる信仰こそ、国家の根幹と考えていたのであろう。換言すれば、ギリシアは国家の態をなしていないことを見抜いていたことになる。)
・・・軍事独裁実現のオプションは考えつかなかったに過ぎないとも言えよう。

要するに、軍事部隊を担う層が信仰する絶対神の、祭祀権を皇帝が獲得することで、王権=神権の軍事独裁国家を樹立したのである。この構造なら、貴族-奴隷という社会構造を温存できるので、難しい選択をした訳ではなさそうである。
宗教を基盤とする戦争国家の出現と言ってもよいだろう。軍事独裁による社会安定を図るなら、これ以上安直で確実な方法はなかろう。これこそ、ギリシア〜ローマ文化の真髄と言ってよかろう。

ポリス国家の出現とは、里海海人の邑を武力制圧し、住民の家畜化を図ったのと同義。言語統一化に従わない者を抹消し、奴隷制度を確立し、同時に、地場自然神信仰の祭祀者を任命してその上に君臨することで安定統治体制を実現したと見るのが自然だ。
従って、ポリスは脱部族社会を形成することになる。部族の紐帯を切らないと、人口多数派の奴隷の反乱必至だから当然である。
この点で、部族を信仰統一で統合化していく王国とは、決定的な違いがある。

部族がからまないので、ポリスの基本社会構造は見掛けと違ってえらく単純。ヒト-犬-羊流の牧畜マネジメントラダーを作り上げただけ。後は、これを支える専門層が別途設定されるだけ。ただ、奴隷統治のために、言語をギリシア語に一本化した点は慧眼といえよう。口頭言語的指示を統制の基本とし、滞れば即座に邪魔を取り払うという姿勢を堅持したに違いないのである。

普通は、バラバラな部族が存在していると、武力的に優位に立つ王が束ねることになり、反乱者の徹底鎮圧を優先し、その正当性発揮のために王権や神権を維持できる体制を組み上げるもの。しかし、部族は解体された訳ではなく、王朝転換を図る部族が消滅することはないので、リスクは小さなものではない。
従って、王国型でなく、首長大会議型連合組織を形成する手もある。名目上は、利害調整を全員一致原則のもとで行う仕組。(王国化の前段階であるが、条件によっては、そうとは限らない。)
ギリシア-ローマの場合は、この部族連合のパターンから始まっている訳ではない。まずは部族の解体から。そのため、本来的には、部族の上に君臨する王位はえらく座りが悪く、支配層による大会議制の方が運営しやすいと言えよう。共和制とは、それだけのこと。ギリシア-ローマの政治制度は人類史上画期的と評価するような代物ではなかろう。

「古事記」を読むと、倭は当初から一貫して海人的地場環境信仰を維持しており、ギリシア-ローマの変遷を眺めると、よくそんなことができるものだと驚かされる。
もちろん、人民一丸となって帝国化に邁進した時代もあるとはいえ。

ギリシアのように渡来民が先住民を武力制覇し厖大な奴隷を使う仕組みを作る動きは主流になることはなかったし、ヒト-犬-羊流のラダーマネジメント導入も徹底的に嫌われ続けたのは間違いない。

・・・遊牧民文化と東アジアの島嶼的海人文化の間には越えがたい溝があるようにも思えてくる。

両者ともに、居住地については流動性が高く、当然ながら戦闘性の意気も高いという点では明らかに似ているが、それは表面的なもので、根底思想は真逆ということなのだろう。

流動性と言っても、遊牧民は移動しながら自立経営できる組織。しかし、海人はそうはいかない。漁撈には、その地ならではのスキル獲得はかかせないし、カロリー摂取上、植物系食糧無しでは生活基盤は脆弱で安定した生活はむずかしい。後背地での、多様な食料調達は不可欠で、海人と言っても兼業型にならざるを得ず、この能力を身につけるにはある程度定住しない限り無理である。海人はモンスーン気候の自然のなかで上手に生きていく知恵を磨くことになる。
侵略したところで、すぐお隣の湊でさえ、自然環境は微妙に違っており土地を奪ったところでゼロから生き抜く術を創りあげるなどばかばかしくてそうそうできるものではない。ママ活かして、貢物要求が最善であろう。役に立たない支配層は叩き出されるか、住民の総員逃亡となろう。羊と違って、戦闘能力もあるし、新たな地を見つけ、自立生活できるスキルがあるのだから。

エーゲ海〜アドリア海一体は気象が安定しており、倭の状況とは違う。どの地でも、ほぼ同一スキルで生産が可能とくる。大量の奴隷と領土さえ獲得すれば、マネジメントスキルだけで経営が成り立つので、遊牧民にとっては楽園のような地ということになろう。
この新たな為政者は全く異なる体質であり、ギリシア社会は大転換させられた筈。
もともと、遊牧は草地と水源確保が死活問題。これは、パイの取り合いであり、弱肉強食以外に解決方法は無い。戦闘性はそこらが由来であろう。家族や部族の絆とは、この武力担保と同義。
もちろん気候変動で状況が悪くなって行けば、パイ自体が消滅するので、定着民を襲う以外に生き残るすべはない。侵略行為はお手のモノというか、避けることはできない。
太安万侶の判定では、このような精神は倭では定着しなかったことになる。

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