→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2021.7.21] ■■■ [201]脱トーテム実現パターン このような話をする場合、言っている本人も気付かずに小中華思想にドップリはまっていることが多い。他国と文化的に違うからこそ、独自の共同体への所属意識が存在しており、その結果、国の存在感が生まれる。従って、ことさらそれを表だって言う必要など無い。 しかしながら、「今昔物語集」の時代から、天竺・震旦・本朝の違いは際立っている。📖三国観 すでに述べて来たように、天竺と震旦は社会構造が古くから異なっており、それと親和性が高い信仰が定着している。表面的には紆余曲折はあるものの、現代までそれが継続していると考えることもできる。 そうだとすれば、日本についても同じことが言えそう。 ここらを考える場合、重要なのは、この3者比較は国家誕生後という点。いかに小さな国であろうが、それは一部族の集合とは違う。古代の部族はトーテムというシンボルを自らの祖と見なしアイデンティテイとしていたようだが、当然ながらバラバラに乱立するだけで、これを統合して初めて国が生まれる。 要するに、部族社会で国家観を創るためにはトーテム信仰を消滅させる必要がある。祖先神と習合しているから、一般的には容易いことではない。 その方法としてはいくつか考えられる。・・・ 誰でもがすぐに思いつく方法は、絶対至上神の導入であろう。しかし、そのような信仰へと自然に変わって行くことは無いから、説得力ある"教え"が根幹となる。当然ながら、カリスマ的教祖主導の、折伏役の宗教教団なくしては布教は成り立たない。教祖のお言葉は絶対的なものとなる。 アブラハム(部族祖)のユダヤ教団、イエス(救世主)のキリスト教団、モハメッド(予言者)のイスラム教団がそれに当たろう。 3種3様。 ❶すべての信者を一部族と見なす。 …信者には部族的紐帯が要求される。 部族祖が崇めていたとされる唯一神以外の信仰を認めない。 教団は俗から離れた絶対的信仰者組織になる。 本来的には、信仰者はその一員となることを目指すことになる。 ❷部族信仰を全面禁止に。(文芸として残されることはある。) 部族祖はなくなり、教祖が代替することになる。 このため教祖はヒトだが、救世主でもあるから、神でもある。 …信仰者と非信仰者はここで越えがたい溝ができる。 ❸先祖への尊敬姿勢容認。部族社会は温存される。 但し、唯一神への信仰告白と絶対帰依ありき。 唯一神否定の動きには容赦しない。(改宗見込みがあれば柔軟であるが。) …偶像崇拝は絶対的禁忌。信仰を棄てた者には死の道しかなくなる。 教団が部族間摩擦の裁定役を担うことになる。 当然ながら、教義解釈学者主体の教団となる。 震旦も疑似的な至上神を創出することで、特定部族に王権が付与されたとする教義を生み出している。天帝-天子関係で、独裁国家の正当性を誇示していると言える。だからといって、この天帝-天子関係に必ずしも宗教的教義は必要ではない。しかし、祭祀については厳密な行儀が不可欠という点が特徴。その祭祀担当が、儒者勢力であって、事実上国教としての地位を保証されている訳だ。 しかし、この国家の本質は、あくまでも独裁者-官僚による統制体制。部族信仰を解体し尽くした結果、国家を支える紐帯となるべき観念を失ってしまったので、信じようが信じまいが、天帝を信仰するしかない。 要するに、独自トーテム部族の多数乱立社会が武力的に整理されてしまったということ。部族の支配層は祖先祭祀の宗族に衣替えさせられてしまい、部族信仰はシンボルともども完璧に霧消。その流れに乗らなかった部族はほとんどが絶滅させられたと見て間違いなかろう。 その状態で、官も軍も、独裁者による信賞必罰の合理主義が持ち込まれるのだから、社会は安定の方向に進むことになる。個人の所業が、所属宗族の浮沈にかかわってくるからだ。科挙にしても、有能な人物を宗族が争って婿取競争をする制度と見ることができる。 宗族第一主義は、極めて単純な部族解体方法でもあった。もちろん、その核には宗廟に於ける祭祀が位置付けられるが、その最重要な葬儀については、行儀次第は儒者の手中にあるという構造なのだ。 教義で行儀が決まる訳ではないので、教団らしくないが、個人を宗族のヒエラルキーに組み込むことで、その社会生活から精神活動まで統制する、紛れも無き宗教勢力である。社会システムによる"合理的"信仰の半強制で成り立っている教団と言えよう。中華帝国では、その精神は現代に迄脈々と受け継がれている。宗族祭祀の鍵でもある家長の葬儀の"華やかさ"は他の国家では考えられないほど、物品配布は勿論のこと、ストリップまで繰り出す。ともかく大々的に人を集めることが宗族繁栄の最重要課題なのだから、合理主義の極みと言ってよいだろう。 ❹宗族信仰一色に染め、部族的紐帯をバラバラに。 ただ、かつての部族を解体しても、祖とも考えられていたシンボルの神が消えたに過ぎず、部族が抱えていた様々な機能神を代替する神を創出してはいないので、国家運営に影響を及ぼさない限り、有用なら容認することになる。但し、それはあくまでも天子-官僚体制内。つまり、土着的な神々は、ヒエラルキーに組み込まれることになる。その役割を担ったのが道教ということになろう。王朝非公認信仰をすべて取り込み、儒教の天帝崇拝-宗族信仰を補完する役割に徹して、社会安定化の役割を果たしていると見ることもできる。しかし、反王朝の動きを胚胎していることにもなるから、危険な存在でもある訳だが。 さて、天竺だが、叙事詩の神々が多岐に渡っており、すでに述べたように古くから職業でフラグネント化されており、その狭い社会毎に"法"を叙事詩から読み取ることになっており、それを支援するのが職業としての叙事詩語り部を兼ねた宗教者ということになる。 つまり、叙事詩成立時点で、すでに部族信仰ではなく職業別信仰になっており、そこに尊卑の階級的ラダーがあろうとなかろうと、すべての職業が相互依存関係である以上、政治的状況に応じた揺らぎはあるものの、民衆的に人気の神が最高神化するだけのことだろう。 考えてみれば、「リグ・ベーダ」成立時点で、部族トーテム乱立社会に終止符が打たれて当然かも。 トーテムとはアイデンティティそのものであり、祖とすることで他部族とは異なる存在であることを確認することで、絆を固めることができるが、お話が生まれてしまえばその威力は失われてしまうからだ。 例えば、「ジャータカ」は、釈尊が語った、因果律を示す前世譚で、上座部仏教の経典である。登場動物は、トーテム時代を彷彿させるものの、完璧に動物説話のレベルになってしまっている。これが、誰でもが耳にするお話になってしまえば、トーテムの役割は終焉となろう。 「ジャータカ」はパーリ語だし、「リグ・ベーダ」はサンスクリット語であり、このような語圏が作られてしまうと、独自性は地域性を示す特定の自然以外に独自性を示すことができなくなるのではあるまいか。別な言い方をすれば、同一言語で叙事詩が語られるようになると部族別縦割りが壊れて行くのと違うか。 ❺言語圏を確立した段階で、 口承の叙事詩を成立させ、 聖典化し、部族独自性を無意味化。 こうして❶〜❺を見てみると、「古事記」は❺に一番似ている。しかし、天竺に於ける乳海に、大蛇・毒蛇・亀・牛・馬が登場するのと違って、冒頭にトーテムらしき動物は見当たらない。ひとしきり神の動きがあってから、大蛇、兎/鰐、鼠、鰐、がようやくにして出てくる程度で、烏、熊、猪は、現実の天皇の事績だから、トーテム部族時代を苦労して乗り越えた感は無い。 このことは、本朝の社会は、部族トーテムへの拘りが薄かったことを意味していないか。渡来歓迎で、雑種化に前向きな体質だったようにも思える。 鰐族、鯰族、海鵜族、等々が渡来した筈だが、倭ではそのトーテムでの活動はしなかったのではあるまいか。最初から、居ついた地の環境に関係する身近な自然の神々をアイデンティティにしたのかも。 "ヒトは青草。"と言ったり、葦牙に神の存在を感じるという人々に、自分達のトーテムを語ろうという気にならなくても驚きではないし。 そもそも、倭の創世期は、単性で神が成る社会だったのである。男女対偶神が始原ではないし、国生みの男女神も生殖行為を知らなかったのだ。これでは、祖としてのトーテムを絆にする部族が存在していたのか疑問を覚えてしまう。 部族繁栄の産めよ増やせよ思想を嫌っていた可能性もあろう。島嶼の箱庭的地域で生きていくには、適正人口規模があり、増えすぎても減り過ぎても生活は苦しくなるのだから。 そんな状況を突破することができるようになったのが、天孫降臨後の新型農法だったのかな、と思ったりして。 (C) 2021 RandDManagement.com →HOME |