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■■■ 「古事記」解釈 [2021.7.20] ■■■
[200]乳海と水母なす混沌は関係するのか
神話を 十把一絡げにして、世俗的な概念のモチーフでモジュールに分解して比較するのは、恣意的に母集団を設定しているようなもの。(アーリア系言語を母集団にするのとは訳が違う。)期待している結論に合わせて整理しているに過ぎないから、注意した方がよい、としつこく書いて来た。ここで、又、繰り返すことになるのでご容赦のほど。

原始の海は、世界中で共通に見られるという、お話としては面白いが、それ以上ではないが、「古事記」解釈ではココは肝心要なので、安易に考えるべきではない。  📖インターナショナル視点での原始の海

太安万侶は、倭の精神文化は島嶼的海人であると見抜いたのであり、その考え方で全編が書き綴られている。儒教の道徳観は生き残りに必要なら取り入れるし、道教も同じことがいえるが、もともと新しい文化を柔軟に受け入れて重層化してきたからで、仏教については触れもせずだが、同じことが言えるということだろう。

従って、「古事記」の内容は儒教と仏教の考え方に合わない話が中心とならざるを得ない。
そこは、政治勢力の妥協の産物にならざるを得ない国史とは全く異なる点と言ってよいだろう。・・・国家の威信をかけて知の総力をつぎ込んだプロジェクトとは、スタンスが異なるわけである。亡命百済王族や中華帝国をよく知る新羅僧の切れ者は勿論もこと、主要勢力の代表をメンバーに入れた筈であり、これを政治的合意形成に達者な者が智慧を絞って齟齬無きように歴史を創るのが史書編纂なのだから。
国の歴史を知りたいなら、史書以外にあり得ない。古事記は同時代の書であり、これより古い資料が発見されない限り、いくら頭を使おうと、史書以上の知恵を発揮できる根拠など何も無いのだから。にもかかわらず、そんなことをしたくなるのは自惚れ屋と史書書き換えを図るイデオローグ位のもの。後世成立の史書とはもちろん後者である。中華帝国では、王朝毎に書き換えられることに倣っただけのこと。訂正補充追加しているのではなく、儒教的合理主義から来る、時代に合わせた潤色作業そのもの。おわかりだと思うが、どちらが正しいかの検討とが、現王朝の政治状況に合わせて選択して新たな史書の創作作業の一部を担っているだけ。

そう考えると、冒頭の宇宙創成譚はことの他重要となる。

史書のプロジェクトメンバーから見れば邪魔モノ以外の何者でもなかろう。天帝-天子概念とは何のかかわりも無い上に、高天原〜国原〜海原というのが、島嶼海人の基本信仰でありますゾと冒頭で宣言しているとも言えるからだ。
しかも、高天原信仰ありきとしか思えない書きっぷり。神はなんとなく、神が居るべき環境から自然に生まれてくると書かれている上に、中洲のような泥地に育つ植物こそ倭の生命力のシンボルとまで言い切っている。
これは儒教国樹立には都合が悪いことこの上無し。しかしそう思うのは、中華帝国型儒教の信奉者であって、太安万侶はそうは思っていない。

そんな風に考えると、水母なす海の情景こそ、原初の混沌であるという島嶼域海人の観念はユニークと言わざるを得まい。

Wikiによれば、「ラーマーヤナ」第3巻では、作者の聖仙がラーマに乳海攪拌の経緯を説明することになる。(インドでは、子供でさえ誰もが知っているような話である。)・・・
  創造と破壊を周期的に繰り返す宇宙だが、
  その創世の時代の話、
  アスラ族と女神アディティの息子の神々が不死を希求。
   (神々にはヴァルナ+ミトラ+インドラ等々が含まれる。)
  そこで、両者は不死霊薬調製に立ち上がる。
   (強敵アスラ族との戦争で疲弊した結果、協力体制に。)
  曼荼羅山を心棒にして、
  龍のような大蛇王を紐のようにして巻き付け、
  皆で引いて、乳海を1,000年に渡り攪拌。
   (乳からのバター作りの要領である。)
  ところが、地下世界支配者が猛毒を吐き出した。
   (九頭龍的な毒蛇王である。)
  お蔭で、アスラ族と神々だけでなく人間迄大被害。
  神々はシヴァに助けを求めた。
   (神々の王は実質的にシヴァということ。)
  すると、ヴィシュヌが登場し、
  毒は供物であり、受領するようにシヴァ神を教諭。
   (シヴァは力はあるが、判断力はヴィシュヌが優る。)
  そこで、甘露の如く、毒を飲んでカイラーサ山へ帰還し
   (後遺症として首部の青痣として描かれる。)
  ヴィシュヌも去り、攪拌再開。
  すると、曼荼羅山が海底にめり込んでしまい中断。
  今度は、ヴィシュヌに助けを求めた。
   (状況が状況なので、捨て身的神が希求されたのだろう。)
  ヴィシュヌはに化身し、甲羅に山を載せて支え、
  自分自身で山頂を手で支えて攪拌を続けた。
  1,000年経った時、
  先ず、棒と水瓶を携えた神が出現。
  次に、水中で生成している甘露の霊液から
  6億の水の精が誕生。
  さらに、水神の娘神、宝石と出現が続く。
  ついには、甘露の不死霊薬液が完成。
  その所有を巡り不和発生。
  アスラ族連合は、神々と激戦に。
  そこで、美女に化身したヴィシュヌが霊薬を奪取した。
  反抗者はすべて戦死。
  女神アディティの息子の神々は敵対勢力を絶滅させ、
  インドラが王位に。
【注意】聖典により、ストーリーは異なる。e.g.
📖本朝冥界観念の違いが鮮明

亀が海底に入ると言っても、海人が乳海という概念を持っているとはとうてい思えまい。「古事記」には、蛇があちこちに登場するとの解説が多いが、上記のような状況とは全く違う。そもそも、オロチ退治が矢鱈目立つにすぎず、蛇とはっきり書いてある箇所は、"あちこち"にある訳では無い。「古事記」の記述を、そう"考えたい"という願望的解説だらけということ。

普通に考えれば、天竺の叙事詩は、原始の海を語りたいのではなく、蛇信仰を含め、様々な勢力のシンボルを雑炊化で一緒にさせるために作られたお話となろう。要するに、インドラが王位という結論に向けて、寄せ集められているだけ。そもそも、創造と破壊を周期的に繰り返すとしており、それと原始の海概念は全く異なると言わざるを得まい。

言うまでもないが、乳海譚も、水母の如き混沌の海も、唯一神が世界を創るという観念と繋がる点は何一つないし、洪水神話と関係することもない。
しかし、だからといって互いに全く没交渉の関係と決めつけることはできかねる。関係がありそうな話を加えることは、なんら難しいことではなく、それを避けただけかも知れない。上記の「ラーマーヤナ」話にしても、明らかに政治的な雑炊化なのだから。
例えば、内陸部の遊牧民が創成神話に原始海を持ってきてもそれは驚きではない。政治的に必要だったからに他ならないだけ。
震旦での、亀+蛇の北方霊獣の名称は玄武。名前から見て、大型甲羅の海亀以外に考えられない。北方にも海ありという観念が自然に生まれる訳がないし、北方住民が大型海亀に出会うこともあり得ない。従って、政治的にそのように決めざるを得なかった何らかの理由があったことになろう。

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