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■■■ 「古事記」解釈 [2021.7.27] ■■■
[207]三つ栗の意味を推定してみた
"三栗の 中枝の 穂積り"という訳のわからぬ御製歌謡が収録されているが📖ドングリ時代を想定していたか、小生としてはピンと来た。
まあ、三文推理のレベルではあるが。

と言うのは、流石に「リグベーダ」を読むことはしないが、斜め読み以下の超即眺めではあるものの、自分の眼で眺めようとしたからだ。注目すべき話に出会っていたことを思い出したのである。・・・
 船のなかで 若い船員たちが
 ヴィビーダカ/Bibhitakaの博打に興じていた。
    [辻直四郎:「リグ・ヴェーダ讃歌」岩波文庫]

東南アジアで落葉性街路樹にもなっている大木Terminalia belliricaの木の実を用いるギャンブルだ。この木は、沖縄で見かける、鈴なりの実が付く、コバテイシ(枯葉手樹)/モモタマナ(桃玉名)の近縁である。簡単に言えば、インドのアーモンド。(アーユルヴェーダにも。)

どのような、やり方かといえば、海人であるから単純至極。100個を裕に超える木の実の山から一掴みして数えるだけ。

倭でも、カシの実で同じことをしていた筈である。
倭の場合は、数が3m-6m/4y-8yとなっていることでわかるように📖数詞文字考@2018年、4個づつ取り去っていき、残りが3個だと勝者で、ゼロはブタとされよう。

天竺はどうか。
矢張り、4個づつなのである。ただ、理屈と法がお好きな人々であり、絶対勝者は当然ながら割り切れる数の残りゼロ。最悪は1となる。

カシの実の代わりに、栗でこのゲームを行うことはできないが、毬の中に何個あるかは気になったろう。3個だったりすると、ソリャー凄いとなろう。

間違えてはこまるが、天竺では船員だから賭け事好きということではない。国を賭ける王もいるのであるというか、それが叙事詩の初めの話だったりしかねない社会なのだ。それを嫌うのは儒教国だが、それは表向きで、実態は昔も今も全く逆なのをご存じの方も多いだろう。

このゲームには、王権や神権を感じさせる要素こそ無いものの、誓約としての占いの原点的色彩があるので、精神的基層から発する賭け事と違うか。

戦争ゲームのチェスや将棋の発祥が天竺であるのは明らかだが、木の実掴みも果たして天竺からかはなんとも言い難しだが、ありえそうな気もする。📖将棋に見る、日本文化の特異性@2010年

ただ、儒教に馴染んでいると、遊興とか賭け事は低俗との感覚で眺め易いので要注意である。
そんなこともあって、「酉陽雑俎」著者や、「今昔物語集」編纂者はゲーム話を取り上げていると見ることもできよう。・・・身分違いの対戦もありえるし、興奮の余りの殺人も決して特殊な訳ではない。
つまり、見ず知らずであっても同じ土俵で戦う仕組みがあるということ。そこにはコミュニティ基盤形成のパトスが生まれていると考えることもできるのだ。
はたして、太安万侶はどう考えていただろうか。

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