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■■■ 「古事記」解釈 [2021.8.29] ■■■
[240]戊子年三月十五日癸丑日の意味
日付表記というか、年代を知るための干支表記について書いたが📖干支の紀年記載に拘るな、巻末文章である推古天皇の崩御については特段問題視しなかった。
しかし、一般的には注目されている箇所であるので、触れておこう。・・・
 妹豐御食炊屋比賣命坐小治田宮治天下參拾漆[シチ=7]
 <戊子年三月十五日癸丑日崩>
 御陵在大野岡上 後遷科長大陵也

割註でわざわざ記入しているのである。
  年干支…戊子
  月…3月
  日…15日
  日干支…癸丑

この記述が、研究者にとっても、「古事記」愛好者も、大いに気になるところらしい。
どういう訳か、一見すると、珍しくも 「日本書紀」の記載日とほとんど一致しているように映るからとか言われている。・・・
  歳…36
  年干支…戊子《628年》
  月…3月
  月日干支…丁未朔(1日は丁未)
  日…7日
  日干支…癸丑

ところが、「日本書紀」からすると、癸丑の日は15日ではない。(1丁未 2戊申 3己酉 4庚戌 5辛亥 6壬子 7癸丑)
見掛けと違って、根本的なところで、両者は不一致であることを示している訳だ。

おそらく、常に「記紀」として読む人にとっては、この違いの解釈は自明であろう。日を干支で記載しているのはこの箇所だけだからだ。もとの「古事記」原文には"癸丑"など存在せず、国史に合うように、後から加筆されたと見なせば楽勝で解決するのだから。
しかし、流石に、これでは、都合が悪い箇所はすべて改竄と解釈しているように映るので拙いという人もいるようで、"癸丑"の前の一文脱落としたりするようだが、五十歩百歩であろう。
(「記紀」読みとは、一事が万事、この調子と考えて間違いない。)

ただ、少なくとも、太安万侶が初歩的な間違いをする訳がないとは見ているようで、何の例証も示さずに、崩御日を15日にしたがる風習があったという説まであるようだ。

小生は、この記載、ふ〜ん、以上ではない。
巻末最後に、崩御日は15日だが、干支では癸丑に当たると書いただけに過ぎないからだ。
当たり前だが、太安万侶の発する"ご注意"である。
無理矢理言い張っている訳ではなく、それが素人の実感だからだ。

ただ、注意が必要で、「古事記」に流れる太安万侶のパトスの原点は、国史編纂プロジェクトに辟易したことにあると見ているからこその見方であることを忘れないで欲しい。
「記紀」読みとは、このように考えてはならぬという意思がベースにあり、両者を峻別するのは異端者のみとされているのは明らか。従って、ここでの、"素人の実感"とは戯言以上ではない。

「古事記」編纂方針から考えれば、公的暦法を用いるとか、各種記述間の整合性実現のための辻褄合わせを行う必要性は皆無である。これは、編年体記述を原則とする国史では、およそ考えられないこと。年表記は最重要事項であり、常に、官僚の英知を集め、統一基準の暦年にする必要があるからだ。

つまり、「古事記」では、暦法はゴチャマゼOKということになる。
国史ではないのだから、おかしなことではない。度重なる制度改定があったのだから、その時代感覚を伝える方が余程重要ということ。標準化されてもいない過去の様々な暦法での年代を、推定しての整合性実現など愚の骨頂ということになろう。
ただ、それぞれの記載がどの暦法かは、残存資料や口承だけで判断できるものではない。ママにするしかないので、読者にとってはわかりにくい。
そうした状況を理解して読むこと、というご注意を末尾に記載してくれたということになろう。

要するに、日付で言えば、十五日という点に特徴ありだ。これは月歴。
伝承を見ると、満月の日に崩御されたと考えられる。その一方で、公的な記録からすると、どうも癸丑らしいと記載しただけの話。

なんらおかしなことではない。

崩御告知は、国家的に極めて重要であるから、公的には干支表現だったに違いない。しかし、これは60一回り表現であり、それこそカレンダーでもなければ使い勝手が悪すぎ。朝廷ならいざ知らず、文書伝達などしていられない現場感覚ではもっぱら月歴だろう。

ちなみに、国史プロジェクトでは、癸丑の記載から、日付を算定する作業を行った筈である。それだけのこと。

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