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■■■ 「古事記」解釈 [2021.9.15] ■■■
[257] 下巻内題再考
序文での解題箇所で下巻は、16代仁徳天皇〜33代推古天皇としている。何代目かに当たるのか数字の記載は無いものの、18天皇を対象としていることは自明に思える。・・・
  大雀皇帝以下 小治田大宮以前 爲下卷。

ところが、すでに取り上げたように📖下巻収録天皇のランク、「古事記」下巻の内題にはそれとは異なり19天皇と記載されている。
  古事記下巻
  起 大雀皇 盡 豐御食炊屋比賣命
  凡十九天皇


皇統譜は一番重要であるし、それを確定すべく著述しているようなもので、数字を誤ることなど考えられないし、素人相手に正本書写ミス防止に付け加えるなど冗談以上ではなかろう。
一介の中堅官僚が、このような情報を操作するなど有りえない訳で、そもそも、朝廷の公的承認あるいは、天皇のお墨付き無くしては18天皇の確定など不可能であろう。

・・・と言うか、即位しているのか否か確定が難しい代が存在しているということ以外のなにものではない。

換言すれば、初代から33代迄の天皇は、「古事記」成立時に"初めて"決定したことになろう。当然んがら、異なる選択の天皇譜を主張した勢力も存在していた筈。
そんな状態であることを示唆するために、わざわざ19代という数字を持ち出したのだろう。おそらく、公的にも、はっきり決めかねている未即位だが天皇としての執政者と見てもよいという代が存在していたのだろう。

そうなると、その候補は?、となるが、常識的には考えるまでもない。皇統断絶の危機に直面し、繋ぎとして女帝が存在していたのは明らかだから。

しかし、太安万侶が、その程度のことで、わざわざ異なる数字を内題として掲げるとも思えず、多少、気にかかっていた。
系譜については何度も書いて来たので、女系も併存的に残っていることをさりげなく示していることがわかっ
ているので、マ、そんなところだろうと安易に考えていた。・・・直系男系とする方針を打ち出したから、女帝とするかは議論が割れることだろうと解釈したのである。

男系を打ち出したいなら、天皇とすればよさそうな皇子が存在していることを忘れていたのである。・・・

それは、突然、播磨で発見されて皇位継承者となった兄弟の父である。

この継承話での、ハイライトは"我こそ皇嗣なり"と謡うシーン。
  如調八絃琴所治賜天下
  伊邪本和氣天皇
/[17]履中天皇之御子
  市邊之押齒王之奴末


考えてみると、おかしなこと。天皇の御子ではなく、孫だからだ。
他に血統を嗣ぐ者無しということでは候補に挙がるが、直系とは言い難い位置だ。もちろん朝廷上層部にしてみれば、皇統断絶を避けるためなら非直系止む無しとなるから、候補者発見を寿ぐのは自然な姿勢だが、この歌は本人発だ。
皇子でもないのに、高らかに皇嗣たることを誇るのはおかしかろう。一般に王位に就くにあたっての姿勢としては、不可欠な宣言ではあるものの。

但し、父、市邊之押齒王が即位していれば、何の問題もない。そうなると、下巻は19代になるが、皇統譜の収まりはよくなる。

突拍子もない推定で言っている訳ではなく、倭健命を天皇と見なすのと同様に、市邊之天皇と呼ぶことも認められているからだ。もちろん、播磨地区限定ではあるが。[「播磨国風土記」美嚢郡]・・・
  又詠 其辞曰:
   淡海者水渟國
   倭者青々垣々山投坐 市邊之天皇
  御足末奴津良麻者


しかし、市邊之押齒王が即位したと書く訳にはいくまい。大長谷若健命が天皇あるいは皇太子を惨殺して皇位を継承したとみなされかねないからだ。

市邊之押齒王のプロフィールははっきりしてはいないが、太安万侶の書き方からすると、ほとんどそれに近いステータスだったのは間違いなさそう。・・・
  此時 相率 市邊之忍齒王 幸行淡海
  到其野者各異作假宮 而 宿
  爾 明旦未日出之時
  忍齒王 以平心隨乘御馬
  到立大長谷王假宮之傍 而
  詔 其大長谷王子之御伴人・・・


実態のほどはわからないものの、流石に、天皇虐殺は拙かろう。
ただ、国史には、臣下による天皇(長谷部若雀天皇/[32]崇峻天皇)暗殺事変が記載されている。「古事記」では、事績を書かない領域に当たり、4年間統治としているのみで無関心を決め込んでいる。極めて異常であるにもかかわらず、混乱発生を示唆する話は皆無だから、中央政権内では暗黙の同意が形成されていたことになる。

ただ、太安万侶的には思うところがあったに違いない。ご指名を受けた天皇自体も、今上天皇と戦って勝利し皇嗣の地位を獲得したようなものだからだ。「古事記」記載範囲を超えるから、情報は無いものの。・・・

[38]天智天皇(在位:668-672年)の嫡皇子 大友皇子は、壬申の乱で大海人皇子/[40]天武天皇(在位:673年-686年)と戦って敗死。(672年)天武朝の影響下で編纂され、壬申の乱を極端に重視している国史(「日本書紀」)には、即位も立太子記録も無い。
しかしながら、一般には、皇子の称号ではなく、[39]弘文天皇とされており、「国史」を否定しているようなもの。

要するに、天皇18代か、19代かという議論はほとんど意味がないことを意味していると言えよう。
このことは、天皇が並立や、天皇無し状態があっておかしくないということでもある。朝廷は全国を支配してはいるものの、その統治形態は中央-地方の2重構造が長く、古代社会の連合王国に見られる持ち回り制度や最大勢力の名目的代表制度と似た政治文化が染みついていたということでもあろう。男士直系相続も、中華帝国の制度とはかなり異なっており、古代の雰囲気を醸し出している女系が併存しており、神権-王権分離型の体制び残渣を感じさせるものとなっている。
太安万侶は、そのような日本国の社会風土をしっかりと見つめ、できる限りわかるように記載してくれているのは間違いなさそうである。ただ、読み取ろうという気力がないと、滅茶苦茶な古代書を読むだけで終わってしまう。
残念ながら、そのハードルは極めて高い。

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