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■■■ 「古事記」解釈 [2021.9.24] ■■■
[266] 御名代と御子代の違い指摘の鋭さ
「古事記」では、皇統断絶の危機に直面した24代天皇段は、そこらを記載しているので読む内容はあるものの、皇位継承話でしかなく、その後の下巻末尾の33代天皇段迄は、宮・御陵に系譜情報を記載しているだけで、読もうという気が削がれる箇所だ。但し、系譜記載にも、太安万侶の真骨頂ありと見て、色々と眺めて来た訳だ。
ここで今頃になって、たった一行ではあるものの、読み取りが浅かったことに気付いた。・・・  御子白髮大倭根子命
  坐伊波禮之甕栗宮 治天下也
  此天皇
   無皇后 亦 無御子

  故 御名代定 白髮部

┼┼大長谷若健命/[21]雄略天皇
┼┼└┬△韓比売(都夫良意富美の娘)
┼┼┼├┐
┼┼┼白髮大倭根子命/[22]清寧天皇
┼┼┼┼△若帯比売命
どうということもない話だ。婚姻関係無しで、御子無しであるから、御子部ではなく、当天皇部となったのか、と流してしまった。
それぞれの宮地には、それに該当する部が指定されるとともに、皇子には御子部が設定されるので、マ、その程度の話と見なしたのである。

しかし、考えて見れば、これはかなり特殊と言わざるを得ない。
この天皇の"部"なら、甕栗部あるいは、伊波禮部と呼ばれる筈で、そういうことではないのだ。(国史では、後世に名を伝えることが目的で設定されたと記載されているとのこと。)

つまり、この天皇の御子を担当することを予め期待していた臣下達がおり、皇子部を賜われないなら、その代替をということで生まれたのが御名代部だろう。

たった一行に過ぎないが、これだけで、倭の政治構造の肝が見えてくる仕掛け。

崩御した先代は、皇位継承者をことごとく消し去った訳だが、すべての皇継候補者がこの様に後援者に抱えられているので、自らの権力基盤を盤石にするにはその手しか無いのは自明なのもよくわかる。

これが、中央-地方の二重構造を支えており、中央に集まる各地の代表者によって統治の大方針が決まっていく仕組みが安定しているのは、この御子部の仕組みがあるからだろう。
ある意味女系制度とダブルところがある訳で、妻の実家で皇子が育てられるようなもの。おそらく、御陵は実家近辺ということになろうし、宮はこの一族の本拠地近くということになるのだろう。

要するに、御子部を獲得した臣下は、皇子を育成するために、選りすぐった手下と養育担当として息子を送り込むことになるのであろう。いわば、教育競争が繰り広げられるのであろう。

もっとも、12代のように御子が多いと📖八十御子のインパクト、ほとんど機能しそうにないと思いがちだが、それぞれの皇子/皇女を、新たに支配下に置かれた勢力が面倒を見ることになるだけのことと考えれば、それなりに機能するのかも。

この仕組みから脱して、中央集権化に進むのはずっと後代のこと。
大化の改新の諸政策に関する記載は潤色が多いそうだが、その詔で名代は廃止されたとされているらしい。
これが、中央集権制実現の第一歩だったことは間違いあるまい。・・・
 國造所有昔在天皇曰所置子代入部。
 皇子等私有御名入部。
 皇祖大兄御名部入部。

    [「日本書紀」卷廿五 天萬豐日天皇/孝コ天皇 大化二年/646年]

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