→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2021.9.26] ■■■ [268] リスク覚悟で東国の実態記載 とりあえず、東国の信仰対象の富士山を表だって記載しないことにしたとのトーンを前面に出してまとめてみた。 東国の扱いは、一介の官僚が勝手にどうのこうのと評論できる訳がないから、かなりむずかしいのである。 少なくとも、「古事記」で富士山信仰に触れるのはリスクが高すぎよう。📖富士山を無視する理由 しかし、思った以上に、太安万侶は大胆である。 それがわかるのが、酒折宮での話。 かなり危ういことを欠いている。もっとも、現代でも、そう感じるどころか、真逆に解釈することになっているから、なはなかの知恵者ということになろう。 記載で言えば、以下の箇所。・・・ 卽 自其國越出 甲斐坐酒折宮之時 歌曰:「・・・」 爾 其御火燒之老人 續 御歌以歌曰:「・・・」 是以 譽 其老人 卽 給東國造也 天武天皇を道教の神的に見ている人の文章であれば、老人とはОldの意味ではなく最高の敬称意味する可能性がある。立派な御仁が東国に存在しており、その統治をまかせることができる大王だ、と言い切っているようなもの。 しかも、"御"火燒之老人と敬称付。 焼津で野火を放った勢力をも従えている東国の王であることを示唆していると見られても致し方あるまい。 マ、調理人ですゾと言い逃れはできるかもしれぬが、朝廷からすれば、東夷の下賎の輩に國造の地位を与えたのは事実なのだから文句のつけようがない。 と言うことで、神剣で野火を逃れることができた地は、遠近江のすぐ隣ではなく、足柄峠より東でなくては辻褄があわないのである。 言うまでもないが、酒折宮@甲府での、倭建命と御火燒之老人間での、歌の交換が、日本の連歌の発祥とされている。 上記では、"續 御歌以歌"という下りが、連歌を意味している。皇子の歌に対応できる御供はいなかったのだから、この"老人"は高度な文化的交流ができる洗練された人物そのものと言ってよいだろう。おそらく、東国の王。 ともあれ、東国の歌遊びここにありということ。 「古事記」の筋からは、東(吾妻/阿豆麻)の12道がどの範囲なのかは定かではないが、海側は足柄之坂本(峠)から先で、山側は科野之坂(峠)から先ということではあるようだ。信濃〜毛野の入山峠は登場しないが、険しい山道経由で果たして可能だったのか自信が持てなかったからだろう。信濃内の道筋さえ想定できないのだから。と言うのは、東山(新)道の開通は「古事記」成立(712年)頃のようで、道の状況を知らない筈がないからだ。 (大寳二年[702年])十二月・・・壬寅 始開美濃國岐蘇(木曾)山道 [「續日本紀」卷二 文武天皇/天之真宗豐祖父天皇] (和銅六年[713年])秋七月・・・戊辰 美濃信濃二國之堺徑道險隘往還艱難 仍通吉蘇路 [「續日本紀」卷五 元明天皇/日本根子天津御代豐國成姬天皇] ---ルート--- 詔《言向和平東方十二道之荒夫琉~及摩都樓波奴人等》-出立⇒伊勢大御~宮⇒尾張國⇒相武國(相模)⇒走水海(相模横須賀〜上総)⇒"蝦夷・山河荒~"の地⇒常陸国新治⇒足柄之坂本(相模小田原北西)⇒甲斐 酒折宮⇒科野國(信濃)科野之坂(美濃)⇒尾張國 つまり、東方十二道とは、あくまでも朝廷のビジョンであって、山側は軍事道路を切り拓いていく長期を要するプロジェクトだったことになろう。軍事的優位性を誇る朝廷軍が、東方諸国を制圧しすべてを一気に服属させたという華々しいストーリーでは描けないととを暗にほのめかしていると言ってもよいのでは。 熊襲殺戮譚では、明らかに少年であり、伊勢に向かって出発したのもそれから間もなくで、尾張では婚姻関係を結ばなかったのも、皇位継承時点を考えると年齢的に時期尚早ということでは。ところが、走水海では后が入水。系譜では御子が存在しており、相模に腰を落ち着けて数年というところでは。 さらに上総に渡り、常陸へと。そして、相模に戻るのであるから、ここもかなりの年月と踏んでもよかろう。 それから甲斐へと進むのであるが、酒折宮での状況を見ると、すでに支配者としての地位を確立していることがわかる。 ここからさらに山側へと軍事道を造りながら進むのである。地形的に見て、蓼科山や諏訪湖に足を延ばさざるを得ない。そこから、木曾川の河岸段丘沿いに下流へと移動していくことになるが、科野之坂の難所を越えるのであるから短期的行軍は無理であろう。尾張に入ったのは早くて壮年後期ではあるまいか。 この時点で、事実上大王位を確立したと見てよいだろう。父は数多くの御子をつくったが、倭建命も同様で、吾妻域の各地に御子を王として任命したと見てよいだろう。 御火燒之老人に國造の地位を与えたのは、12代天皇ではなく、倭建天皇であると書いてあるようなものだからだ。それに、数はわからぬものの、后や御子等が御陵を作ったと明確に書いてある訳で。 このことは、朝廷は私的な"御陵"建造を認めたことになが、倭建天皇とはしないことに決定した訳だ。天皇と太子は完璧な分裂状態ということになる。 この辺りは、記述を間違えば文字通り首が飛ぶかねないのだから、その政治的判断力はたいしたもの。 (C) 2021 RandDManagement.com →HOME |