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■■■ 「古事記」解釈 [2021.9.27] ■■■
[269] 3立太子はあり得ぬ話
倭建命は東国では任官権も握っており、中央政権からほとんど独立状態だったのだから、事実上大王であり、太子≒天皇ということになろう。📖リスク覚悟で東国の実態記載
換言すれば、天皇併存もあったことになる。
「古事記」は初代〜33代(34)の天皇を順番に記載しているが、即位したか否かのトレースができる訳もなく、編纂時にベストエフォートベイシスで決定したのだろうから、おかしなことではない。

殿上人の末席でしかない太安万侶が天皇か否かを判定できる訳もなく、国史プロジェクトの巻立構想検討時点で早々と決定され、天武天皇の了承を得ていたと見てよかろう。つまり、この時点での政治状況で1〜34代が決定したに過ぎず、実際は、諸説あったということ。

天皇から、正統皇統譜を纏めるように命じられた一介の官僚が、ここらの状況をあからさまに書ける訳もないが、工夫しながら書いていると見てよいだろう。12代天皇段での系譜記載は、それを見事に示している。・・・

その場合、確認しておかねばならないことがある。
中華帝国において、太子に即位するのは1名。複数立位などおよそ有りえない。
  《太子》 漢代名称:皇太子
   …帝位繼承が確定或した帝の嫡子
 (儒教的には長子)
ところが、12代天皇代には3太子が存在したとはっきり書いてあるのだから、中華帝国の視点からすれば、倭の制度は非常識極まりないことになる。

もちろん、①⇒②⇒③ということなら、おかしくはないから、指摘されればそう答えるに違いないが、"此三王負太子之名"という記述からすると、3名併存と考えるしかあるまい。

このことは、皇嗣の異なる伝承が3本存在していたことを伝えるための記述と見るのが自然だ。そこまで書く必要もなかろうに、と思うのだが。
❿御真木入日子印恵命/崇神天皇
└┬─────△御真津比売命(大毘古命の息女)
│├┬┬┬┬┐
││
└─┬────△意富阿麻比売(祖:尾張連)
│├┬┬┐
○大入杵命(祖:能登臣)
○八坂之入日子命
△沼名木之入日売命
△十市之入日売命

└┬──△n.a.
┼┼├┬
┌│───┘
││
⓫伊久米伊理毘古伊佐知命/垂仁天皇
│└┬────△氷羽州比売命(旦波比古多多須美知宇斯王の娘)
││├┬
│││
│││┼┼┼┼[吉備臣の祖]若建吉備津日子
│││┼┼┼┼
││⓬大帶日子淤斯呂和気天皇/景行天皇
││└┬───△針間伊那毘能大郎女
││││
│││├┬┬
│││┼┼
│└│──│─┬───△弟苅羽田刀弁(大国之淵の娘)
┼┼小碓命/倭男具那命/倭建命
┼┼└┬△布多遅能伊理毘売命
┼┼│⓮帯中津日子命/仲哀天皇
┼┼
┼┼└┬△弟橘比売命…入水
┼┼│〇若建王
┼┼└┬△布多遅比売(近淡海 安国造の祖 意富多牟和気の娘)
┼┼┼〇稲依別王(祖:犬上君, 建部君)
┼┼└┬△大吉備建比売(吉備臣 建日子の妹 大吉備建比売)
┼┼┼〇建貝児王(祖:讃岐綾君, 伊勢之別, 登袁之別, 麻佐首, 宮首別)
┼┼└┬△玖玖麻毛理比売@山代
┼┼┼〇足鏡別王(祖:鎌倉之別,小津の石代之別, 漁田之別)
┼┼└┬△n.a.
┼┼┼〇息長田別王
┼┼┼
┼┼┼※↓

└─│────┐
┼┼└┬───△八坂之入日売命
┼┼┼├┬┬┐
┼┼┼若帯日子命/⓭若帶日子天皇/成務天皇
┼┼┼└│┬△弟財郎女(穂積臣らの祖 建忍山垂根の娘)
┼┼┼┼〇和訶奴気王
┼┼┼┼
┼┼┼┼五百木之入日子命
┼┼┼┼└┬─△志理都紀斗売
┼┼┼┼┼┼┼(尾張連の祖 建伊那陀宿祢の娘)
┼┼┼┼┼○品陀真若王
┼┼┼┼┼└┬△志理都紀斗売
┼┼┼┼┼┼┼┼(尾張連の祖 建伊那陀宿祢の娘)
┼┼┼┼┼┼├┬┐
┼┼┼┼┼┼△高木之入日売命
┼┼┼┼┼┼△中日売命
┼┼┼┼┼┼││△弟日売命
┼┼┼┼┼│││
┼┼┼┼┼│││
⓯品陀和気命/大鞆和気命/応神天皇
└┬────┘││
└┬─────┘│
│├┬┐┼┼┼┼
⓰大雀命/仁徳天皇
└┬──────┘

ここでの記載がヘンテコに映るのは、嫡子継承となった皇嗣13代が、嫡子継承できなかった点。説明があってしかるべきだが。
即位していないとされる小碓命の御子が14代となるのだから、ルール無視である。直系13代の嫡子継承ができないなら、皇子は大勢存在するから、そこから選択する策もある筈。ただ、母の出自の問題があるし、すでに王としてそれぞれの担当地域が設定されていて継承が難しいということはあろうが。

14代天皇の正統性を誇るつもりなら、小碓命を天皇として、嫡子直系の皇統であることを示す方がよさそうに思うが、それは避けたことがわかる。14代の事績は、どちらかと言えばアリモノを集めてきただけに見え、どう考えても小碓命の御子だったから皇嗣とされたように映ることも大きい。小碓命の婚姻関係は、どう見ても父天皇とイイ勝負であるし。
このことは、中央政権にとっては、小碓命に天皇位を与えてはならない理由があったことになろう。
いかにも双子の弟というだけの皇子名しか無く、中央で認知された宮地名も欠落。・・・中央朝廷(地方代表居住)-地方という2重構造の統治が続いている以上、中央に宮地を欠く"倭建命"が即位したとは言い難かろう。(地方に宮が存在するのは異常事態ということになるが、14代も、熊襲対応でそうならざるをえなくなっている。そして、皇后+御子15代と中央勢力との抗争勃発となる。)
しかも、"倭建命"とは熊襲の命名だから、天皇であると認めがたいこともあろう。

このように考えると、3太子並立との意味は、3名とも、実質的に即位したと言わざるを得ない、有力な伝承が3本存在したことを意味しているのでは。
これらすべてを認めてしまうと、3天皇並立となってしまい、皇統譜が成立しなくなってしまうが、どれか1つに絞るのも困難なので工夫したと考えるのが自然だろう。
もともと、倭国の大王位は中華帝国の天子独裁制度に則ってできた訳ではなく、連合王国の代表だろうから、持ち回りとか、有力者の交互就任があってもおかしく。これを外側から見れば、3大王並立と見なされる状況があってもなんらおかしくない訳で。
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※↑
●倭建命
└┬△n.a.
〇息長田別王
└┬△n.a.
┼┼〇咋俣長日子王
┼┼└┬△n.a.
┼┼┼├┬┐
┼┼┼△飯野真黒比売命
┼┼┼┼△息長真若中比売
┼┼┼┼△弟比売
⓯品陀和気命/大鞆和気命/応神天皇
└┬──┘
○若沼毛二俣王
└┬△百師木伊呂弁
┼┼├┬┬┬┬┬┐
┼┼○大郎子/意富富杼王
┼┼┼忍坂之大中津比売命
┼┼┼△田井之中比売
┼┼┼△田宮之中比売
┼┼┼┼┼△藤原之琴節郎女
┼┼┼┼┼┼○取売王
┼┼┼┼┼┼┼○沙禰王
┼┼┼
┼┼┼└┬⑲男淺津間若子宿禰命/允恭天皇
┼┼┼┼├┬┬┬┬┬┬┬┐
┼┼┼┼○木梨之軽王
┼┼┼┼┼△長田大郎女
┼┼┼┼┼┼○境之黒日子王
┼┼┼┼┼┼┼⑳穴穂命/安康天皇
┼┼┼┼┼┼┼┼△軽大郎女/衣通郎女
┼┼┼┼┼┼┼┼┼○八瓜之白日子王
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼㉑大長谷命/雄略天皇
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼△橘大郎女
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼△酒見郎女

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