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■■■ 「古事記」解釈 [2021.10.6] ■■■
[278] 市辺之天皇との呼称は正当
「播磨国風土記」の葦原志舉乎命 v,s, 天之日矛譚を眺めていて📖但馬国話には力が入っている 、後者は呪術を駆使するもののほぼ排除される傾向にあり、前者は比較的好まれたとはいえ、同じく排除されたりしている。どちらも外来扱いで、顕著なメリットの有無で受け入れられるかが決まっているような印象。

天之日矛は、呪器と天という名称からみて、受け入れられる素地はありそうだし、半島渡来であるから鉄器生産や探鉱能力で圧倒的能力を誇れる筈だが、そうはいかず。鉄は吉備に頼れるし、出雲の農耕システムの方が土地柄に合っていたので嫌われたか。
結局、天之日矛は但馬出石に行くしかなかったが、その地は地勢的に洪水に見舞われる泥地域。それを開墾し一大経済力構築にこぎ着けたということか。

そんな具合に、風土記をザッと目を通していて、見慣れぬ天皇名があるので驚いた。
 又詠 其辞袁:
 「淡海者 水渟国
  倭者 青垣
  青垣 山投坐
  
市辺之天皇 御足末 奴僕良麻 者」 「播磨国風土記」美嚢郡志深里

これは、もちろん「古事記」の市邊之押齒王を指している。
  (@針間国志自牟)
 於奚袁奚天皇等 所以坐於此土者・・・
 爾 遂 兄儛訖
 次 弟將儛・・・
 「・・・如調八絃琴所治賜
  天下 伊邪本和氣天皇之御子
  
市邊之押齒王之奴末」

風土記では、倭建命が天皇とされるのも、ある意味道理である。皇嗣は、天皇の嫡子でない限り魂を引き継げないのだから、天皇の父君の即位儀式記録が無ければ追号が当然ということだからだ。
("天皇"称号は、明らかに「古事記」成立頃に、中華帝国の帝制度に倣って制定されたもの。そうである以上、そう考えるしかあるまい。
そういう意味から言えば推古、"女帝"は実質的には天皇であっても、太子正式即位迄の、崩御した天皇の代理との位置付けの筈である。武則天は例外である。そのように考えると、皇位継承に於ける皇后にvetoがあっておかしくない。)


⑯┬△石之日売命(葛城之曽都毘古の娘)
├┬┬┐
⑰│││
│○墨江之中津王
⑱│
┼┼

└┬△黒比売命(葛城之曽都毘古の子 葦田宿祢の娘)
┼┼├┬┐
┼┼市辺之忍歯王
┼┼│○御馬王
┼┼青海郎女/飯豊郎女
┼┼
┼┼└┬△n.a.
┼┼┼├┐
┼┼┼㉔意祁王
┼┼┼│㉓袁祁王之石巣別命
┼┼┼└┬△難波王
┼┼┼┼┼《無》
┼┼┼
┼┼┼└┬△春日大郎女(㉑皇女)
┼┼┼┼├┬┬┬┬┐
┼┼┼┼高木郎女
┼┼┼┼┼財郎女
┼┼┼┼┼┼久須毘郎女
┼┼┼┼┼┼┼手白髪郎女(㉖皇后)
┼┼┼┼┼┼┼┼㉕小長谷若雀命
┼┼┼┼┼┼┼┼│○真若王
┼┼┼┼┼┼┼┼《無》

市辺之忍歯王の天皇称号は目にとまるが、実は気になったのは、ココではなく、話の筋。

歌を聞いた小楯連が驚き朝廷に知らせるというドラマチックな流れではなく、伝え聞き、心痛の母君に早速奏上すべく参上という官僚的対応になっている点。
大体に於いて筋は同じであるものの、なんとなく違和感を覚えたのである。細かい違いをあげつらう気はさらさらないものの、この風土記の末尾譚にしては風変わりな書き方と思ったというに過ぎないが。

「古事記」では、先ずはその地に假宮を作り、天皇としての扱いを整え始める。その上で、朝廷の姨(父の妹)飯豐王に驛使。(母の存在は不詳。)歓喜の飯豐王は、両王を宮に上らせる。そして、兄弟の皇位継承譲り合い話に続くことになる。

一方、「播磨風土記」では、山部連小楯が朝廷の母 手白髪命の許に参上する。(「古事記」では、手白髪郎女は㉔意祁命の皇女。後、㉖皇后となり、㉙母に。)そこで、改めて、小楯が派遣されて両王が召し上げられることに。

問題は、この後である。
朝廷で即位儀式が挙行されたのだろうが、ともあれ、"更 還下"、つまり、播磨に戻ってしまうのだ。
そして、なんと、"造宮於此地 而 坐之"。天皇の宮地は大和から遠く離れた播磨になったと言うのである。朝廷命に忠実な編纂方針にしては、ずいぶんと思い切ったことを書いていると言ってよいのでは。あるいは、それが意に沿っているのかも知れぬが。
  故有
  高野宮 少野宮 川村宮 池野宮
  又
  造屯倉之処 即 号御宅村
  造倉之処 号御倉尾

播磨国美嚢郡志深里とは加古川支流 志染川とその上流の淡河川域。宮を造営し、朝廷の中枢を担えるような場所ではない。このことは、この2代は即位はしたものの名目的君臨で近飛鳥宮と石上廣高宮は天皇不在のことが多かったということかも知れない。
 ㉑大長谷若健命…長谷朝倉宮
 ㉒白髪大倭根子命…伊波禮甕栗宮

 ㉓袁祁王之石巣別命…近飛鳥宮
 ㉔意祁命…石上廣高宮


太安万侶の見立ては、自明。㉔兄と㉓弟が皇位を譲り合ったという話は、初期はどちらも器でないから、執政は実質姨の飯豐王ということになったのだろう。教育も受けず、朝廷の官僚組織運営ルールもまるっきり知らないのだから、当然のこと。
㉓先代には皇后も妃も存在しないのだから、他に手があるとは思えないし、そうなれば宮がダブルのも最良の施策と言ってよかろう。必要な際に逆行幸(播磨の宮⇔難波[㉓皇后の地]⇔近飛鳥宮)すればよいのだから。
御陵は、㉓片岡石坏岡上だが(㉖片岡石坏岡上も存在するので注意を要する。)、㉔"不詳"である。太安万侶は、その地は播磨にありと睨んだのではなかろうか。
相当に苦労して判断していそう。

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