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■■■ 「古事記」解釈 [2021.10.20] ■■■
[292] [私説]「播磨国風土記」での品太天皇の意味
天皇の名前は1つであるとのトーンで書いてしまったが📖 [私説]初代天皇名の別称の意味、例外があり、⑮天皇の名前は複数。・・・
   品陀和気命 ⇔ 品太天皇@「播磨國風土記」
   大鞆和気命
   (軽嶋明宮天皇)
   (応神天皇 胎中天皇)
     …歴代天皇の中で"神"の字がつく天皇は3柱:① ⑩ ⑮
   (八幡大神 八幡大菩薩)
     
…欽明天皇32年広幡八幡大神と告げ馬城峰に降臨

息長帶比賣命【大后】の御子2柱名(他の1柱は、品夜和氣命。)として、"大鞆和氣命 亦名 品陀和氣命"と記載されており、天皇名表記としては異例と言ってよいだろう。

もともと、名前を口に出すのは恐れ多いということで、宮地名で呼ぶ筈なのに、それとは異なる別名が存在するのは何らかの特殊事情ありと考えるのが自然だ。そして、実際、それを示す話が掲載されている。
先ずは誕生時の命名譚。・・・
 此太子之御名所以負"大鞆和氣命"者
 初所生時 如鞆宍生御腕
 故著其御名
 是以
 知坐腹中定國也

生まれながらに手首内側筋肉が、革製弓具[鞆]を装着した様に盛り上がっており、胎中ですでに母を通じて武力的に王権を掌握していたということ。
疾病か遺伝子異常による異形発生なのだろうが、そのような御子の場合は大切に神として育てられるが為政者になることは希だと思われるが、(後世称号天皇として、なんらかの事績が残っている可能性はあろう。)この場合、実質的に天皇家中興の祖として尊崇を集めているから、飛び抜けた才覚があったことを際立たせるような身体的特徴がたまたま腕に存在したという程度であろう。
ともあれ、このような話が伝わるということは、カリスマ的天皇だったことを示していると言ってよいだろう。

ところで、"大鞆"だが、"大"は美称で"鞆"が武具名ということになるが、国字。そのみは"とも"しかない。日本型弓にしか使うことが無い武具にわざわざ別称を必要とする訳がなかろう。
"鞆"のもともとの読みは"ほむた"で、それが"とも"と言う読みに変わったとの説は根拠薄弱と言わざるを得まい。マ、よくある手であり、おそらく、通説とされているであろう。
 《鞆》
  漢字音:無し(日本用字[地名])…鞆の浦は有名。
  訓:とも…名のり("つかさ"とする場合も。)
  一説読み:褒武多
   …政治的な後付け読みか、もともとの読みということになろう。

もちろん、基本名称は"品陀(ほむた[本牟多]と読む。)"や"品太"で、"とも"という音とは無縁な文字である。
 《品》
  呉音:ホン
  唐御:ヒン
  訓:しな

この"品陀"だが、⑮天皇の父の名称を受け継いでいるように見える。そうだとすれば、"鞆"的腕という特徴とは全く無関係なターミノロジーなのは歴然ということになろう。
フツーの人なら、"ほむた"という地名があるのだろうと考えそうだが、そのような検討自体の情報が少な過ぎてよくわからない。

┼┼○八坂入彦命
┼┼└┬△n.a.
⑫大帶日子淤斯呂和気天皇/景行天皇
└┬△八坂入日売命
┼┼┼┼┼┼┼┼┼○建伊那陀宿祢
┼┼┼┼┼┼┼┼┼└┬△n.a
┼┼【太子】五百木之入日子命
┼┼└┬───────△志理都紀斗売
┼┼┼品陀真若王
┼┼┼└┬△n.a
品陀和気命/応神天皇
┼┼┼├┬┐
└┬──△高木之入日売命
│└○額田大中日子命 ○大山守命 ○伊奢之真若命 △妹大原郎女 △高目郎女
└┬───△中日売命
│└△木之荒田郎女 ⑯大雀命 ○根鳥命
└┬────△弟日売命
△阿倍郎女 △阿具知能三腹郎女 △木之菟野郎女 △三野郎女

皇位を継承した皇子 大雀命は強引に天皇が呼び寄せた妃を賜ることになる話があり、そこで詠まれる以下の歌で、皇子を"ほむた[本牟多]の日の御子"と呼んでいるから、地名のように思えるが。・・・
 又 吉野之國主[=国栖]等 瞻大雀命之所佩御刀歌曰:
 
品陀[本牟多]の日の御子 大雀 大雀
 佩かせる太刀 本剣 末フユ
 冬木の 素幹が下 木のさやさや


この地の候補としては、ご陵地があげられる。どういう訳か、現代の読みは"ほむた"ではないが。
 д誉田御廟山古墳[恵賀之裳伏岡陵]南側隣接(羽曳野誉田)
   こんだ[誉田]八幡宮@河内国志紀郡 御陵南側

 《誉/譽》
 呉音/唐音:
 訓:ほ-める たか たけ ほん

本貫地と云うか、出身勢力の地、あるいは幼少時養育地に御陵を造営しがちであり、その辺りの地名ではないかという気がしないでもないが、御陵名からすれば、そこは恵賀の筈。誉田、後世、⑮御陵ということで替えられた名称と見た方がよさそうで、なんとも言い難しではある。

・・・実につまらぬ、学者は別だが、どうでもよさそうな細かなことに、係わっている訳だが、このような分析にたいした意義はない。この手の議論は、恣意的にいかようにも可能だからだ。

それでは何故に、追求しているのかと言えば、太安万侶が《易名[=改名 or 謚号]》譚を取り上げているから。・・・
 故 建内宿禰命 率其太子 爲將"禊" 而
 經歷 淡海 及 若狹國 之時
 於高志前之角鹿 造假宮 而 坐
 爾 坐其地 伊奢沙和氣大~之命 見於夜夢云:
 「以吾名 欲易御子之御名」
 爾 言禱白之:
 「恐隨命易奉」
 亦 其~詔:
 「明日之旦 應幸於濱 獻易名之幣」
 故 其旦幸行 于濱之時 毀鼻入鹿魚既依一浦
 於是 御子令白于~云:
 「於我給御食之魚」
 故 亦 稱其御名 號"御食津大~"
 故 於今謂"氣比大~"也
 亦 其入鹿魚之鼻血臰故 號其浦謂血浦 今謂都奴賀也

と言っても、なんだかわかったようなわからない筋である。・・・

行宮での夢告は、吾の名前と、御子の御名を交換したいというもの。
皇子は、従うことに。
【しかし、それぞれの名前は定かでない。】
朝になり、浜に出ると、
  そこには鼻を毀損している入鹿魚。
命は、「早朝に濱に出向き、易(交換)名の幣を献上するように。」だったので、
【この命の文は、主体と客体が自明とは言い難い。】
皇子は、「御食の魚頂戴。」と口に出す。
その一言は"御名"をしたことになり、
《御食津大~》との號を称する結果に。
こうして、この神が敦賀の気比大神であるとの名称由緒話になるのである。

名前交換がどうなっているのかさっぱり見えてこない。そんなこともあって、現代感覚からすると、オヤジギャク以外の何物でもなさそう。"魚(ナ)"と"名(ナ)"の駄洒落に見えてくるからだ。
ナンダカネである。

名前交換譚との前提で考えると、伊奢沙和氣大~から天皇もらった名は、品陀和気命しか有りえまい。"ほむた"なのだろうか。しかし、敦賀のそのような地名に気比大神が座していたようには思えない。
一方、大鞆和気命という名前を伊奢沙和氣大~こと気比大神が取り入れた様子は全く無い。
これでは、名前交換儀のシーンとは言い難かろう。名前と言うことでは、突然にして、《御食津大~》が新たに登場してくるに過ぎない。

御食は、穀類だけではなく、鯨類も該当することを示したかったということだろうか。
(場所はかなり離れ得るが、真脇遺跡@能登半島先端東側内海入江奥:縄文時代前期出土品から見て、日本海はイルカ(鯨類)漁が盛んだったことがわかる。摂取カロリー上、通常漁撈では、農耕無しでは生活は難しいが、鯨漁が可能なら別で、海人は農耕に依存せずとも生活可能だったことになる。

どうも、この譚は、品陀和気命という名称に関係する話ではなさそう。
そうなると、「播磨国風土記」での品太天皇という表記は、品太出身の天皇という意味と考えるのが自然だ。本来は○○宮と言うところだが、軽嶋明宮の影が余りに薄かったのだろう。それよりは、敦賀の氣比の方が天皇イメージに直結していたということになる。
そこでの禊こそが、天皇としての出自を意味しているのだろうか。
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