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■■■ 「古事記」解釈 [2021.10.28] ■■■
[300] 宮地名への拘り
㉘代の檜垧廬入野という"独特な"宮名に触れたので📖、今迄も随分と眺めて来たが、一般表記と比較しながら、俯瞰的に検討してみたくなった。

下記に示すように、全般的には、異なる伝承無しということになるが、それは一般的に天皇が宮名で呼ばれていたからで、どうしても地名にならざるを得ないせいだろう。

しかし言葉上では同一であっても、漢字表記は異なるため、誤解を生むことも多そう。
太安万侶はそれを最小限に抑えるための配慮と言わんばかりに"之"を適宜挿入している。しかし、有っても無くてもそれほど影響があるとは思えないから、これはご注意か。恣意的な読み替え漢字表記も多々見られるから、そのおつもりで、と。

とは言え、違いが無いという訳ではない。

先ず目につくのが、葛城_掖上の、"池心"。
御陵名も御所の掖上博多山上とされており、掖上は葛城山東麓の地名であろう。そのように考えると、"池心"という名称は、山麓下の池の地を指していると考えてよさそう。
太安万侶はこの時代の宮は山地に造営されたと見ていた可能性もあり、これに従うことはなかろう。

次が、師木_玉垣 v.s. 纏向_珠城。
一見、相違に映るが、狭く指定しただけのこと。磯城は三輪山の西、初瀬川流域までの地域を指すだけなので広域というに過ぎまい。
部族抗争観が浮かびがちな葛城の風土とは違って、水垣 玉垣 柴垣というイメージとしてとらえるべしというのが、太安万侶観。
しかしながら、それは朝廷の高級官僚の感覚とは異なっていたようだ。音も意味も、垣≠城であるにもかかわらず、"宮城"概念を持ち込もうとしているように映るからだ。そもそも都という概念自体、藤原京が初。都城という用語を比喩的に使うことはあっても、正式名称に使うことは無い。垣が事実上の防壁だったのは間違いなかろうが、人々がそう思って呼び名にすることは考えにくい。あくまでも、天皇毎の"宮"は倭のみに通用する概念であり、大陸で類似な風習は見つかっていないからだ。従って、太安万侶が、中華帝国用語でしかない"遷都"とか"○○城"宮を不用意に使うことは無いだろう。

太安万侶は、近飛鳥_八釣と記述するのを躊躇したようである。この地名は現存しており、比定地となる要件を揃えているように見えるが。
地勢的には、かなりの傾斜地であり、水の流れを八重にした農耕が行われていそう。横穴石室造営には向くが、平地化させるには骨な地かも。発音はヤトリらしいから、表記をどうするかは実は悩ましい。

あと、なんとなく気になるのが、師木島_大宮。
何故壮大な名称なのかははかりかねるからだ。
この代以降の宮地とは、この地の出張所的にならざるを得ないという見立てとする以外考えつかぬ。航路の終点の地ということで。

 《宮名(「延喜式」対応)》
㉞__岡本(舒明天皇)高市_崗本
㉝__小治田(推古天皇)__小治田
㉜倉橋_柴(崇峻天皇)倉椅__
㉛__池邊(用明天皇)磐余_池辺双槻
㉚__他田(敏達天皇)__訳語田
㉙師木島_(欽明天皇)城嶋_金刺
㉘檜垧_廬入野(宣化天皇)檜隈_廬入野
㉗勾_金箸(安閑天皇)勾_金橋 @橿原曲川
㉖伊波禮_玉穂(継体天皇)磐余_玉穂
㉕長谷列木(武烈天皇)泊瀬_列城
㉔石上_廣高(仁賢天皇)石上_廣高
㉓近飛鳥__(顕宗天皇)近飛鳥_八釣
㉒伊波禮_甕栗 & 忍海_高木角刺(清寧天皇)磐余_甕栗
㉑長谷_朝倉(雄略天皇) 泊瀬_朝倉
⑳石上_穴穂(安康天皇)石上_穴穂
⑲遠飛鳥__(允恭天皇)遠飛鳥__
⑱多治比_柴(反正天皇)丹比_柴籬 @松原上田
⑰伊波禮_若櫻(履中天皇)磐余_稚桜
⑯難波高津(仁徳天皇)難波_高津
⑮軽嶋_明(応神天皇)軽島_明
______(神功皇后)(磐余_稚桜)
⑭筑紫_訶志比
⑭穴門豊浦(仲哀天皇)穴門_豊浦
⑬近淡海志賀_高穴穂(成務天皇)志賀_高穴穂
⑫纒向日代(景行天皇)纒向_日代
⑪師木_玉(垂仁天皇)纏向_珠
⑩師木_水(崇神天皇)磯城_瑞籬
⑨春日伊邪河(開化天皇)春日_率川
⑧軽堺原(孝元天皇)軽_堺原
⑦黒田_廬戸(孝霊天皇)黒田_廬戸 @磯城田原本黒田
⑥葛城室秋津嶋(孝安天皇)室_秋津島
⑤葛城_掖上(孝昭天皇)__掖上池心
④軽境岡(懿徳天皇)軽_曲峡
③片鹽_浮穴(安寧天皇)片塩_浮穴 @大和高田片塩
②葛城_高岡(綏靖天皇)葛城_高丘
①畝火_白檮原(神武天皇)__橿原 @畝傍山

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