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■■■ 「古事記」解釈 [2021.10.27] ■■■
[299] "檜垧"との地名表記の独自性
見慣れぬ文字に出会い、つくづく、太安万侶は味な事をする、と思った。

 ㉘建小廣國押楯命
  "檜垧[ひのくま]廬入[いほり][]宮"
   治天下也

地名のルビは"ひのくま"としているが、それは読む側が勝手に決めただけ。
 《垧》
 現在の中国語音:シァン…古代も似たようなものだろう。
 日本での読み:ケイ キョウ
 呉音・唐音・訓:n.a.

この文字だが、日本ではほとんど使われていないようだ。中華帝国での用例は少なくないが、見る所、量詞のみ。(土地面積単位:度量衡として規格化されてはいない。)ここで言う地面の面積とは、租税対象域の基本単位のこと。従って、他の用法が重なることは考えにくい。
但し、"郊垧"という熟語があり、郊外の意味で使われている。[@「抱朴子」崇教]

そのような文字を、倭語の"くま"に当てるのが一般的用法とはとても思えまい。
しかし、このような滅多に見ない特殊な文字を使っていても、人々は"くま"と読んだに違いないのである。そうなることを百も承知で、太安万侶は、誰も知らないような文字を使ったのだ。卓越した見識と言うか、「古事記」読者層の知的レベルが極めて高かったことが分かる。

普通に、この地域名を書く時はこうなるのである。・・・
 《「阿波國風土記(逸文)」天皇の稍號》
 阿波國風土記ニモ或云:
 大倭志紀弥豆垣宮 大八島國所知天皇朝廷
…⑩崇神天皇
 或云
 難波高津宮大八島國所知
…⑯仁徳天皇
 或云:
 
檜前伊富利野乃宮 大八島國所知天皇…㉘宣化天皇

・・・読みは"くま"ではなく、"まえ"なのである。
  アハハ!

檜垧之廬入野宮の比定地は📖明日香の南の奥まった場所。異説はなさそうだが、決して確定している訳ではない。宮跡が確認された訳ではないから。
↓近鉄吉野線9
↓R169
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼↓石舞台古墳
○飛鳥駅┼┼┼┼┼┼┼┼┼


 ←於美阿志神社@檜隈寺金堂跡
┌┘┼┼   =檜廬入野宮◆28



この、史跡檜隈寺跡美阿志神社[御祭神:阿智使主神夫妻]境内が位置する現地名明日香 檜前は、地理的には竜門山地から北西に伸びる丘陵尾根の端部に当たる。
四天王寺蔵の"伝世"遺物[金銅威奈大村骨蔵器]蓋裏刻長文に、707年明記「卿諱大村檜前五百野宮御宇天皇之四世 後岡本聖朝紫冠威奈鏡公之第三子也」とあり、宣化天皇の宮名(檜隈廬入野宮@「日本書紀])を示していると見られており、この地名は古くからあったとされているようだ。
しかし、この場合、"くま"ではなく"まえ"。このことは、地勢的特徴から、もともとは"日ノ隈"(=日陰)とされていたのが、好字化(佳表記)が推奨されたために、"檜前"に替わったと考えるしかあるまい、となるようだ。さらに一歩進めた嘉語"檜向"もあるようだ。
と言っても"くま"を捨て去った訳ではなく、檜之熊、比乃久末 比乃久万との表記もあるという。太安万侶流の"檜垧"はそのなかで異端的に映るが、"檜垌"や"檜禺"もあるそうだから、創作という訳ではなさそうである。

そこで、何故にこのような訳のわからぬ漢字が用いられたのかということになるが、理由は単純である。
上記の神社で祀られているのは阿知使主(渡来系氏族である東漢氏の祖)であり、この地は渡来人集落だったのである。
天皇から、"ひのくま"と呼ばれている土地を分け与えられたのであるから、"垧"を用いるのは理屈に合っている。おそらく檜の林の地でもあったのだろう。
船が大阪湾に近づくと黙っていても巨大古墳が目に入ってくる時代のこと。朝廷を支えるプロフェッショナルとして、かなりの人数が渡来して来たようだ。・・・
⑮代
亦百濟國主照古王 以牡馬壹疋牝馬壹疋付阿知吉師以貢上
<此阿知吉師者阿直史等之祖>
又貢上手人韓鍛名卓素亦吳服西素二人也
又秦造之祖漢直之祖及知釀酒人
名仁番亦名須須許理等 參渡來也

⑰代
本坐難波宮之時 坐大嘗而爲豐明之時 於大御酒宇良宜而大御寢也
爾其弟墨江中王欲取天皇 以火著大殿
於是 倭漢直之祖阿知直盜出而乘御馬令幸於倭


後者の話によれば、酔って寝てしまった天皇を放火襲撃から守り抜いたのだから、この渡来漢人は、親衛隊的な武人集団でもあったのは間違いない。日々戦乱で、いつ何時暗殺されるかわかったものではない中華帝国で鍛えられていた人々だから、特記するような能力では無いかも知れぬが。ただ、武器製造のプロも渡来していたようで、軍事アドバイザーとして活躍していた可能性もあろう。
 《「肥前國風土記」三根郡》
【物部郷在郡南】
此郷之中 有神社 名曰物部経津主之神
曩者 小墾田宮 御宇豊御食炊屋姫天皇 令来目天子為将軍 遣征伐新羅
于時 皇子奉勅 到於筑紫 乃遣物部若宮部 立社此村 鎮祭其神 因曰物部郷
【漢部郷在郡北】
昔者 来目皇子 為征伐新羅 勒忍海漢人 将来居此村
令造兵器 因曰漢部郷

…久米王は橘之豐日命+間人穴太部王の皇子で上宮之厩戸豐聰耳命の弟。📖系譜の史書との類似化で完か?

それにしても、宮であるというに、華やかさを微塵も感じさせない名称である"いほり[庵/廬/菴]"なのが面白い。隠者的生活を嗜好した訳がないから、軍営的に必要最小限機能一本槍で造営されたということか。

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