→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2021.10.30] ■■■ [302] 形状変更の合陵は非掲載か 中宮寺所蔵"天寿国繡帳"は断片であるが、その銘文(4x4x25文字)が「上宮聖徳法王帝説」として伝承している。その冒頭は29代欽明天皇。 斯帰斯麻宮[師木島大宮]治天下天皇 名 阿米久爾意斯波留支比里爾波乃弥己等[天国押波流岐広庭] もちろん、仏教伝来時の天皇とされており、国史の公伝年とは異なる訳である。 「延喜式」記載の御陵は、檜隈坂合陵であり、その比定地は梅山古墳@明日香平田[前方後円140m]とされているが、大和での最大の前方後円墳(318m)でありながら被葬者不詳とされる丸山古墳@橿原見瀬-五条野-大軽との見解も存在している。 大型古墳であるから、仏教国化以前造成と考えるのが自然。29代天皇かそれ以前と見るべきだろう。 しかしながら、"丸山"という名称が示すように、早くから前方後円の形状が失われていた可能性があろう。大規模改修が行われたことを示唆しているようなもの。 この天皇の時代は、蘇我氏の覇権拡大期であり、御陵の体裁を伝統様式から変えた可能性も高いのでは。 推定でしかないが、そもそも名称が"合陵"であり、追葬された訳であり、当初の御陵名が檜隈坂陵であったのか判然としない以上、確定するのは拙かろうということでは。 (C) 2021 RandDManagement.com →HOME |