→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2021.11.14] ■■■ [317] [私説]「軽物語」は極めて非大衆的 12首もの歌が連続することもあるし、兄妹の一線を越えた悲恋ということで、文芸的に魅力的な題材だから、解説は山のようにある。 従って、目を通そうとの気力を失ってしまい、代表的と思われる見方に従うことになるが、本当のところを言えば、「古事記」のストーリーとは思えない解釈との感はぬぐいようがない。 と言うことで、冗談半分で小生が受けた印象を書き留めておこうと思う。 冷静に状況を眺めれば、皇嗣とほぼ決まっていた【輕太子】の地位を、【穴穗御子】が奪取したのだから、理由はともあれ皇位継承争いの話ということでしかない。 しかし、皇位奪取正当化話にしては、余計な話が多すぎるし、その趣旨に合いそうにない部分が散見される。 従って、太安万侶がこの話を収載して伝えたかった事は、一般解説とは全く違うと見ることもできるのではなかろうか。 道を外した悲恋とか、皇位係争の謀略がらみ、という観点で、この伝承を眺めないで欲しいとのメッセージが籠められているのでは、と言うことで。 書いてあるのは、たった一度の逢瀬での契り。これこそが、両者にとっての一大決断で、ルビコン川を渡ってしまったのである。 それは、実は、道徳上の掟破りという問題ではない。人々がそれを許さぬという姿勢こそが問題なのである。そして、そのような社会には居られないというのが【輕太子】の姿勢と違うか。 これは、【穴穗御子】の態度とは180度異なるのである。 世間体といっても、支配者階層の小さなコミュニティに過ぎぬが、後者は、あくまでもそこでの自分の受け取られ方を気にするタイプ。要するに、皆に担がれ、お神輿に乗って振舞うことを是としている皇子として描かれている。 そもそも、禁忌の同腹兄妹通婚は、隠れての姦淫しかありえない訳で、輕太子はそれが世間に知られることになっても致し方あるまいと腹をくくっていたと考えるべきだろう。敢えて、隠す気もなくなっていたようにも読める。恋する妻と二度と睦めないなら、死んだも同然との気分に陥ってしまったとも言えよう。 この恋が成就できさえすれば、天皇位だろうが、命だろうがどうでも構わぬという姿勢に終始しているように映る。そして、後半の歌から見て、自分だけの恋人として生きてくれるなら、それで思いは十二分に果たしたことになるとまで。 わざわざ時代遅れの軽い矢で戦いの準備をするという、軽皇子という名前にかけた話も、考えてみれば、本気で戦闘する気などさらさら無かったとも読めよう。たとえ勝ったところで、妻と一緒になれる訳でもないのだから。 一方、重い矢というか、普通の武器で臨んだ穴穗御子は、宿禰の一言で世間体を慮って討伐を止めてしまう。この記述こそ肝要な箇所と言え、【穴穗御子】が即位可能となる根拠を示していると言えよう。 さらに注目すべきは、宿禰の行動。シナリオ通りの大見え的演劇の風情が醸し出されている。すでに、太子は、引き継ぐべき皇霊たる鈴を放棄しておりますというだけのことだが、祭祀に於ける神懸り的舞踏を世間に知らしめるべく行ったことになろう。 つまり、輕太子は世間の上に立つ気はすでに喪失しており、恋こそが第一義という世界に生きておられるということ。・・・ 【輕太子】 v.s. 世間の構図が描かれている訳だ。 《志良宜歌》 あしひきの 山田を作り 山高み 下樋を走せ 下問ひに …山なので水が引けないため、隠れて樋/問を引く 我が問ふ妹を 下泣きに 我が泣く妻を 今夜こそは 安く肌触れ …"妹"を"妻"と自ら公言したのである。 《夷振之上歌》 笹葉に 打つや霰の たしだしに 率寝てむ後は 人は離ゆとも 麗はしと さ寝しさ寝てば 刈り薦の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば 《百官及天下人》 背【輕太子】 歸【穴穗御子】 《-》 【輕太子】逃入大前小前宿禰大臣之家 《作兵器》 【輕太子】銅製鏃 昔風"軽箭" 【穴穗御子】今風"穴穗箭" …鐵製鏃か。 《-》 【穴穗御子】興軍 圍大前小前宿禰之家 《氷雨》 大前小前宿祢が 金門陰 かく寄り来ね 雨たち止めむ 《大前小前宿禰》 擧手打膝 儛/かなで[訶那傳] 歌 參來 《宮人振》 宮人の 足結の小鈴 落ちにきと 宮人響む 里人も謹 : : ついでながら、近親婚禁忌の理由は色々言われている。しかし、帯に短し、襷に流し。分析的には面白いルールが示されることもあるが、概念を欠いているので、それにたいした意味がある訳ではない。 従って、小生も、どれか一つに、いかにも納得したような顔をしてお茶を濁しておくことになる。面倒なので、議論したくない問題でもあることだし。しかし、正直なところ、皆目わからないと言ってよいだろう。 そういうことを考えると、「古事記」軽皇子譚の意味は重い。 儒教国では、同一姓(宗族)婚禁忌は厳格そのもの。韓国では古くから同一姓だらけにもかかわらず、その呪縛を、名目的(確か、8親等禁忌)にでも解き放つことができたのは、近代国家化されてからのこと。極く最近の一大転換である。部外者には、どうしてそこまで拘るのかわからぬが、宗教としての儒教に一度染まると抜けることはできないのだろう。 倭の社会では、古代から、近親婚に問題ありとは考えてこなかった。それは閉鎖的コミュニティを愛していそうな態度に映るから、自我意識を形成しにくいと考えがちだが、そういうことでもなさそう。軽皇子の自我意識の強さが光るからだ。 (C) 2021 RandDManagement.com →HOME |