→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2021.12.18] ■■■ [351]「古事記」の酉陽性の凄さ たまたま、唐代の貴重な残存書「酉陽雑俎」に目を通したので、その用語を使っただけ。後世に伝えるために書を隠遁させる洞のこと。 儒教国家では王朝公認書以外を持てば宗族もろとも末梢されかねないから、当代随一と自負する知識人としては、なんとしても中華帝国の文化風土がどのようなものか記録しようと頭を捻って、インターナショナルな目線で書き下ろした書籍である。すべてソースを明らかにしており、一般読者を想定した創作文芸ではない。 結局のところ、予想通り大陸では残らなかったが、その意義を理解していた日本の仏教系インテリが大事に保管し続けていたので、陽の目を見たのである。 と言うことで、本来的に、インテリ以外に興味を覚える手の書ではない筈だが、トンデモ伝承話が収載されているので、そんな書として一部の人々がその部分だけを頻繁に引用する奇書となっている。 太安万侶もこの著者の段成式と極めてよく似た性情と見てよかろう。 ただ、自作の歌を残そうとはしなかった点が大きく違う。 その理由は、「万葉集」にあたれば、すぐにわかる。柿本人麻呂や山上憶良は書き物"和歌"の道をひたすら追求したが、太安万侶はあくまでも口誦歌謡の精神を伝える文字表記化に拘ったからだ。 結果、歌謡の中核部分の歌を抜き出し、音を文字化し、その背景にあたる部分は倭語が思い浮かぶような文字表記にしたのである。歌謡ではないものの、声を出して読めばそこだけは歌謡らしくなるという目論見。地文は基本語彙が倭語として読めるように配慮した散文だが、口誦する際は適宜アドリブ化できるようになっている。 高度な書き方であり、明らかに知的エリート層以外を対象にしていない。 一方、「万葉集」の対象者は広い。歌謡から、歌を独立させ、特定の儀式用という狭い枠から脱することを図っている。宮廷歌人とされていても、コミュニティの文化たる歌謡の世界にとどまらず、極めて個人的と云わざるを得ない、妻との係わりを情感豊かに謳うことにも注力するようになった。 精神の発露としての"作品"を目指している訳だが、歌謡の精神を引き継ぐことが可能なのかはなんとも言い難しであろう。ここの評価は分かれて当然。 柿本人麻呂や山上憶良を高く評価するのは、後世の文芸志向の人々だろうが、この視点は当人の思想姓と違っている可能性の方が高い。美を研ぎ澄ませ、思想性をいわば昇華させる気があったとは思えないからである。口誦歌謡から、文字歌への転換を図ってはいると言っても、声に出すという原則は遵守していたに違いなく、背景記載地文無しで意味が通じる歌にしたかっただけ。(文芸とは創造の世界であり、柿山イメージは後世文芸家の作品と考えるべきでは。) 太安万侶は、文字化の流れはこのようなものにならざるを得ないと看破していたからこそ、「古事記」に精力を傾けたと考えるのが自然だ。 従って、「古事記」は、「酉陽雑俎」同様に、伝承されている情報をママ取り入れることに最大限の努力を費やしていると見てよいと思う。流石にハイリスクな部分はそうはいかないが、時代の大きな流れを勘案して、雑多で矛盾する情報から、重要な事象を抜き取って提示していると考えて間違いないだろう。 そんなことが、なんとなくわかる箇所がある。 「萬葉集」には、「古事記」引用歌が収載されており、註記がその事情を物語っているに等しいからだ。・・・ 【相聞】難波高津宮御宇天皇代 [大鷦鷯天皇 謚曰仁徳天皇] 磐姫皇后思天皇御作歌四首 [「萬葉集」巻二#85] 君が行き[君之行] 日長くなりぬ[氣長成奴] 山尋ね[山多都祢] 迎へか行かむ[迎加将行] 待ちにか待たむ[<待尓>可将待] <右一首歌 山上憶良臣類聚<歌林>載焉> [「萬葉集」巻二#86] かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の 岩根し枕きて 死なましものを [「萬葉集」巻二#87] ありつつも 君をば待たむ うちなびく わが黒髪に 霜の置くまでに [「萬葉集」巻二#88] 秋の田の 穂の上に霧らふ 朝がすみ いづへの方に わが恋ひやまむ ---或本歌曰 [「萬葉集」巻二#89] 居明かして 君をば待たむ ぬばたまの 我が黒髪に 霜は降るとも <右一首古歌集中出> 上記4首は整然と連関した続き歌になっており、文芸的に進んだ形式なのは誰でもが気付く。常識的にこのように洗練された感を与える歌謡などあり得無い。その故かは知らぬが、"皇后作"とした後世創作歌と見られているらしい。素人からすれば、山上憶良作だろう、となるが、柿本人麻呂作かも知れない。 浅学の徒でさえそんなことを考えてしまうのは、類似の歌として「古事記」所収歌をわざわざ紹介し、ご丁寧にも註記まで付けているから。後述するが、その論理が恣意的にズボラ。(言うまでもないが、「古事記」の歌は、皇后とは全く関係ないし、皇后登場の場面に上記の様な歌は一切掲載されていない。) [「萬葉集」巻二#90] 古事記曰: 軽太子奸軽太郎女 故其太子流於伊豫湯也 此時衣通王 不堪戀<慕>而追徃時歌曰: 君が行き[君之行] 日長くなりぬ[氣長久成奴] 山たづの[山多豆乃] 迎へを行かむ[迎乎将徃] 待つには待たじ[待尓者不待] <右一首歌古事記与類聚<歌林>所説不同歌主亦異焉 因檢日本紀曰難波高津宮御宇大鷦鷯天皇廿二年春正月天皇語皇后納八田皇女将為妃 時皇后不聴 爰天皇歌以乞於皇后云々 卅年秋九月乙卯朔乙丑皇后遊行紀伊國到熊野岬 取其處之御綱葉而還 於是天皇伺皇后不在而娶八田皇女納於宮中時皇后 到難波濟 聞天皇合八田皇女大恨之云々 亦曰 遠飛鳥宮御宇雄朝嬬稚子宿祢天皇廿三年春<三>月甲午朔庚子 木梨軽皇子為太子 容姿佳麗見者自感 同母妹軽太娘皇女亦艶妙也云々 遂竊通乃悒懐少息 廿四年夏六月御羮汁凝以作氷 天皇異之卜其所由 卜者曰 有内乱 盖親々相奸乎云々 仍移太娘皇女於伊<豫>者 今案二代二時不見此歌也> この異常に長い註記が面白い。 国史の「日本紀」所収の難波高津宮御宇大鷦鷯天皇/仁徳天皇と遠飛鳥宮御宇雄朝嬬稚子宿祢天皇/允恭天皇の2代にこの歌を見ることはできないとわざわざ書いているからだ。朝廷公認歌ではありませんとのお断りだ。 しかし、「類聚歌林」[散逸:山上憶良編纂@721年以後数年]には同じ歌が見える、と。 要するに、「古事記」の歌とは、歌の作者もシチュエーションも全く違っていますが、どうなっているのか定かではありませんといった調子。アハハである。 古事記収載歌を元にした抒情的連歌をどうしても作ってみたかったが、創作と直截的に書く訳にもいかず、ゴチャゴチャとした註記を付けることにしたのだろう。もともと、宮廷歌人の歌は創作といっても、すでに存在する歌を取り込んで一工夫する能力が一番に求められていた訳だし、多くの歌のゴーストライターでもあったから、それほどの問題でもなかろう。 「古事記」では、禁断の恋物語の歌である。📖下巻軽王・軽大郎女所収歌12首検討 [歌88]【軽大郎女】どうにもならず軽皇子のもとへ 君が行き[岐美賀由岐] け長くなりぬ[氣那賀久那理奴] 山たづの[夜麻多豆能] 迎へを行かむ[牟加閇袁由加牟] 待つには待たじ[麻都爾波麻多士] 柿本人麻呂が、この恋歌はなんとしても歌集に入れたいと考えており、その意を汲んだのが山上憶良とするとおさまりがよいが。 「萬葉集」に引用された「古事記」の歌はもう一つある。・・・ [歌90]【木梨之輕太子】心中に当たっての相思相愛確認 隠口の[許母理久能] 泊瀬川の[波都世能夜麻能] 上つ瀬に[加美都勢爾] 斎杙を打ち[伊久比袁宇知] 下つ瀬に[斯毛都勢爾] 真杙を打ち[麻久比袁宇知] 斎杙には[伊久比爾波] 鏡を懸け[加賀美袁加氣] 真杙には[麻久比爾波] 真玉を懸け[麻多麻袁加氣] 真玉なす[麻多麻那須] 吾が思ふ妹[阿賀母布伊毛] 鏡なす[加賀美那須] 吾が思ふ妻[阿賀母布都麻] 有りと言はばこそに[阿理登伊波婆許曾爾] 家にも行かめ[伊幣爾母由加米] 国をも偲はめ[久爾袁母斯怒波米] [「萬葉集」巻十三#3263] こもりくの[己母理久乃] 泊瀬の川の[泊瀬之河之] 上つ瀬に[上瀬尓] 斎杭を打ち[伊杭乎打] 下つ瀬に[下湍尓] 真杭を打ち[真杭乎挌] 斎杭には[伊杭尓波] 鏡を懸け[鏡乎懸] 真杭には[真杭尓波] 真玉を懸け[真玉乎懸] 真玉なす[真珠奈須] 我が思ふ妹も[我念妹毛] 鏡なす[鏡成] 我が思ふ妹も[我念妹毛] ありといはばこそ[有跡謂者社] 国にも[國尓毛] 家にも行かめ[家尓毛由可米] 誰がゆゑか行かむ[誰故可将行] <檢古事記曰 件歌者木梨之軽太子自死之時所作者也> 「古事記」記載の歌は《音素》表記漢字だけなので、とても読めたものではないが、全文字仮名にする後世の精神と通じるところがあろう。 上記の「萬葉集」版は文字で意味がわかるで、見ただけでイメージが湧いてくる。助詞を仮名にしてくれれば、訓読み文不要と思えるほど。ただ、頭のなかでは、実は、漢語音読みの可能性も捨てきれない。太安万侶はそこらを一番危惧していたと思われる。 (C) 2021 RandDManagement.com →HOME |