→INDEX

■■■ 「古事記」解釈 [2021.12.30] ■■■
[363]下巻は珠玉の政治風土論
度々取り上げているのが皇統断絶の危機への対処譚部分。200年に渡って検討が重ねられているが、使える資料は限られており、何もかわっていない。従って、解釈は党派性が濃いものにならざるをえない。

このような場合、原文確認をせず、どれでもよいから孫引き的な紹介を使うことをお勧めする。もちろん解釈の部分を読む必要は皆無。たまたま、それが意図的に改変されていたりすれば、大当たり。大いに喜ぶべきで、別にどうということはない。・・・これが、「古事記」を精神的に自由に読むコツである。

そのような姿勢を貫くと、太安万侶の立ち位置が見えてくる。

小生の見立てとしては、儒教の無原則な取り入れがもたらした危険性を認識した点にあろう。国際情勢からみて、儒教国の仕組みを取り入れた国家統治体制構築路線の邁進は不可避であり、一官僚としては文書管理体制への転換は急務と考えていたに違いない。

しかし、その副作用はただなるものではないことを直観的に理解した筈である。文書管理へと急速に移行させる必要があり、物事を明確に伝えることができる主語-述語構造の筆録用漢文を使うしかない。日常話語でしかない日本語は、曖昧表現だらけで多義的な箇所も多く、朝廷用語としては不適ということになる。両者の差は、コミュニティ前提の言語と、社会統制用言語の違いと見ればよいだろう。(これは。現代日本語にも当てはまる。但し、その気になれば主語-述語を明確にした上での、論理的な表現も簡単にできる。しかし、そのような用法は"気色悪"とされ嫌われるせいか、論文の用法にも使われておらず、一部の公用語以外、滅多にお目にかかれない。古代から、その方向には進みようがない風土と言えよう。)

この様な言語になるのは、雑種民族である以上致し方あるまい。言語での交流で互いの違いを明確化して、共存をわざわざ疎外するような馬鹿な真似はしたくないだろうし。要するに、語彙の自然共有化で意思疎通が可能な柔軟な構造を志向していたことになろう。いうまでもないが、文字化には向かない。

しかし、そう言っていられない状況になったのである。そこで問題が発生する。

中華帝国の状況を知れば、漢文登用ということは、神話や祝詞といった口頭伝承の類は、儒教勢力によって遠からず抹消させられて行くことになるからだ。倭語は漢文の語彙発音として残るだけになることは必然と思えたに違いない。
太安万侶はそれを是とは考えなかったため、なんとしても「古事記」を著したかったのだと思う。
普通に考えても、節や抑揚に身体的動作が一体化している祝詞の類は全滅必至。救えるものは、宴席歌謡類と見たのだろう。歌謡の粋として、「歌」に精神を結晶化することでしか、残せないと判断したと見てよかろう。

そう考えるなら、太安万侶の基本姿勢は、反儒教しかありえまい。伝統を引き継いでくれそうなのは渡来の 仏教しかなく、それに期待するしかないと言うことになろう。

儒教では、祖先が蒙った恥は、子孫末代迄の恥であり、宗族メンバーである限り復讐は義務である。敵と見なした一族は抹殺し、墓暴きで死者を辱めることが基本である。ただ、儒教的合理性で自分達も被害を受ける可能性があれば、必要最低限で抑えるが、それは復讐の積み残しでしかない。宗族第一主義の教理的論理ありきの宗教であり、天子独裁-官僚統治社会を大前提としている。一旦、敵と認知されれば、子々孫々絶滅のために力を注ぐことが要求される。パワーバランス上不利なら、都合に合わせて「合理主義」として、表面上当面の変更は自在。
太安万侶は、この本質を知り抜いていたと言えよう。

簡単に言えば、新羅 v.s. 百済は消えることはあり得ないということ。もともと両者は半島東と半島西の勢力であり、倭は日本列島と半島南端の勢力なので、倭にとっては両者の対立など本来はどうでもよい話だが、半島での戦乱が続き、中華帝国の半島移民人も、地位的に不安定となり、高等難民を倭国が大量に受け入れたので、儒教信仰が倭国内に持ち込まれてしまうことになる。経済的には、国際ネットワーク化が進むので繁栄できるものの、この儒教的対立が日本列島内に持ち込まれることになる。

「古事記」は、その辺りを指摘するために書かれたと言えなくもない。

日本国は玉虫色的解決を是とする国であり、儒教のような原理主義を振りかざしながら、実際は、利に敏いご都合主義で動く風土とは違うということ。現代では玉虫色は唾棄すべきと考えられているが、太安万侶的見方なら、それは儒教を是とした天子独裁体制讃美者に諾々と従っている姿そのものに移るだろう。玉虫色とは、見方はいろいろでき、どれが正当というわけではないことを意味する。見方には、必ず価値観が付きまとっており、議論で統一見解が生まれる訳がなかろう。
個人にしたところで、暗記と模倣しかできない人は別だが、色々な見方ができる。そこからとりあえず選択して主張しているにすぎない。従って、理屈で筋が通った主張であれればあるほど、現実の動きはそれと矛盾することになるが、それは問わないのである。一歩間違えれば、カルトだが、当人はそれに気付くことはない。

その辺りについて、太安万侶は「古事記」を通じて徹底的に追及していると言ってよいだろう。実は、序文でも、それを示しているのだが、すぐにはそうとはわからない。
それは、漢字の読みの話と思ってしまうからだ。・・・
  [ひの][した[もと]]くさか[玖沙訶]
伝承地名なら草香でもよさそうだが、そうはしない。
こうした表記は、難波≒浪速や巨勢≒古瀬のような読み変えとは違うので、注意しておく必要があろう。・・・
  [いわ][うえ]いそのかみ[(磯神)]
  [いわ][むら]いはれ[伊波禮]
  [なが][たに]はつせ[(初瀬)]

ともあれ、"日下"は有り得ない読み方をすることになるが、それは、太陽信仰を髣髴とさせる必要があるからだろう。そこは、"日の御子"軍が東遷して完敗した地でもあるが、東遷先行者がすでに存在したことを示すための表記ということになろう。さらに、"日の御子"系かはっきりしないものの、後から追いついた東遷者も登場しており、そんな状況であることを書いておく必要があったことになろう。

その先行勢力は葛城と密接に繋がっていただろうから、後発の天孫を迎え入れたとは言え、両者は大和の主として常に力を誇示できる存在だったのである。

そのことについては、くどいくらい、繰り返して葛城に関する事績が記載されていることでよくわかる。いかにも一連の意図あり。しかも、葛城には、天皇以上の原人神が存在するとはっきり書いている訳で。
   天皇 於是惶畏 而 白:
   「恐 我大~有宇都志意美者 不覺」

(・・・にもかかわらず、「古事記」は、天皇崇敬一色の書とみなす解説は少なくないし、絶対神を描いた経典とみなされていたりもする。)
それに、初代は別だが、6代までは葛城地域の皇后。[6]大倭帯日子国押人命/孝安天皇の宮に至っては、葛城室之"秋津嶋"宮と列島を代表していると見なせそうな命名。📖

なかでも秀逸な記載は、下巻の系譜である。・・・
皇位継承争いの底流には、葛城系(大雀)と非葛城系(長谷)の対立があり、小長谷若雀で止揚を図ったというストーリーに仕上がっているからだ。それはある意味、儒教的価値観での対立だが、それを形式的なもので抑えて深刻な対立を回避したりするのだが、太安万侶はそこらを伝えたい訳ではなかろう。

大雀命───────────16 
└┬△【皇后】石之日売命(葛城之曽都毘古の娘)
│├┬┬┐
│〇大江之伊邪本和気命────17
││〇墨江之中津
││蝮之水歯別命─────18
││┼┼
│└┬△黒比売命(非葛城系)
〇市辺之忍歯王──────(←殺害される。)
└┬─△非記載
┌│──┘│
││┼┼┼
│└┬△髪長比売(非葛城系)
├┐
〇大日下
│△若日下
││
│└───────────┐
└────────┬△長田大郎女
┼┼┼┼┼┼┼┼┼〇目弱王│
│┌───┘┼┼┼┼┼┼┼┼
│〇男淺津間若子宿禰命┼┼│19
│└┬△忍坂之大中津比売命(意富本杼王の妹)
├┬┬┬┬┬┬┬┐┼┼
〇木梨之軽王│││┼┼
│△長田大郎女││┼┼
境之黒日子王┼┼
┼┼穴穂御子┼┼│20
┼┼│△軽大郎女/衣通郎女
┼┼││〇八瓜之白日子王
┼┼││大長谷若健命│21 
┼┼│││△橘大郎女
┼┼││酒見郎女
└──│┘┼┼┼┼┼(←同腹兄妹婚 自死)
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼
┼┼┼┼└──────┘┼┼(←目弱王に殺害される。)
┼┼┼┼┼┼┼└──────┘(←御子無し。)
┼┼┼┼┼┼┼└┬△韓比売(都夫良意富美の娘)
┼┼┼┼┼┼┼┼├┐
┼┼┼┼┼┼┼┼白髪命───22
┼┼┼┼┼┼┼┼┼若帯比売命
├┐
意祁命────────────24
│〇袁祁王之石巣別命──────23
│└─△難波王─────────(←御子無し。)
└┬△春日大郎女
├┬┬┬┬┐
高木郎女
┼┼財郎女
┼┼┼久須毘郎女
┼┼┼┼△手白髪郎女
┼┼┼┼│〇小長谷若雀命────25 
┼┼┼┼真若王
┼┼┼┼
┼┼┼┼└┬〇哀本杼命─────26

上記の系譜の頭は、序文で記される<望烟 而撫黎元 今傳"聖帝">
この[16]大雀命/仁徳天皇@難波高津宮の皇后は葛城出自。皇子は3代[17-18-19]皇継と墨江中津、つまり大坂湾岸中枢港地区を差配する王。
別腹の皇子は、大日下王で、その妹は若日下部命。宮の西部に広がる潟湖の奥の地域を固めていたことがわかる。この地は、後背山地を越えれば大和国葛城。
御子はこの男王五柱、女王一柱のみ。
他の皇妃に対する皇后の嫉妬がもの凄いとの話がメインの段だが、皇位継承争いを生む男子出生許さずということでもあろう。
天皇にとっての最重要課題は皇嗣ではなく航路インフラ構築。大坂湾−明石海峡から西の播磨灘−紀淡海峡から南の紀伊水道の3海域支配である。そのための婚姻関係と言ってよさそう。
皇后としては、大和地区覇権者としての葛城勢力の面子を立てたい訳で、政策的対立は無いと思われる。
  高津宮@難波⇔淡道⇔吉備
  児島⇔大渡@難波⇔木国
  堀江@難波⇔山代
ただ、皇后の発想にも一理あり、朝廷はあくまでも大和内の中央勢力の均衡で成り立っており、地方は中央勢力を通じて影響力を駆使する構造になっていたようで、直接地方と紐帯を結ぶ動きをすれば中央勢力反撃のリスクを負うことになるのは間違いないからだ。

政策的には、大和から琵琶湖水運を利用して日本海側航路とつなげる方向もあり得るから、難波一筋路線を貫くのは容易なことではない。前述したように、これに、膨大な数に達した渡来人の、百済 v.s. 新羅の動きがこれにのっかってくるのである。

尚、[32]長谷部若雀天皇@倉椅柴垣宮という類似名がもう一つある。統治期間は4年しかない。
前代の[31]橘豐日命@池邊宮も3年と短く、海石榴市に近そうな池域を本拠地としたようだ。一方、倉椅は、飛鳥川流域と一本異なる川道で入る地。両者ともに、飛鳥地区を恒久的首府とする動きとは一線を画す。
しかし、いかにも不可思議なのは、長谷とは初瀬川が盆地へ流入する谷地域を指す地名の筈なのに、全く異なる地にもかかわらず長谷"部"という名前である点。武力的独裁を実現した天皇の親衛隊的役割を担った、山がち地域を根拠地とする"長谷部"に支えられた天皇ということだろうか。(太子無しで創設された"小長谷部"ではない。)
前代の御陵は、崩御直後はこの地域の石寸掖上だが、科長の天皇御陵域に改葬されているのに比して、長谷部若雀天皇は宮の近傍と思われる倉椅岡上のママであり、例外扱いなのもここら辺りが問題視されたのかも。
国史によれば、この崇神天皇は臣下により、公的集会時に公然と暗殺されたとされているという。しかし、空位でも、政権は動揺ひとつ無かったとの記載らしい。常識的にはおよそ考えられぬ状況ではなかろうか。
太安万侶が、臣下による天皇殺害という超重大事件の記載を見送ったところを見ると、北九州の内乱とは違って、たいした意味無しと判断したのだろう。もちろん、その後、殺害関係者はすべて処断されているのでとりたてて書く要無しということもあろう。
要するに、実権を喪失しており、廃位合意形成済だった天皇なのだろう。

 (C) 2021 RandDManagement.com  →HOME