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■■■ 「古事記」解釈 [2021.12.31] ■■■
[364]太安万侶と山上憶良は無縁だろうか
太安万侶と山上憶良に接点などなさそうに見える。📖柿本人麻呂とは姿勢が異なる
《柿本人麻呂》  《太安万侶》    《山上憶良》
[誕生]660年頃    [誕生]n.a.    [誕生]斉明6年/660年頃
   ↓
   天武天皇代
[
出仕]天武9年/680年
   ↓     
[詔]「古事記」編纂
   持統天皇代
   ↓
   文武天皇代
[朝廷での年代判明歌の最後]
 文武4年/700年
   ↓                 
[命]大宝2年/702年 遣唐使
   元明天皇代
   │     
[叙]和銅4年/711年 正五位上
   │     
[献]和銅5年/712年 「古事記」
   ↓                 
[叙]和銅7年/714年 正六位下⇒従五位下
   元正天皇代
   ↓     
[逝去]養老7年/723年 従四位下民部卿 贈従三位 勲五等
   聖武天皇代
[逝去] 神亀元年(724年)
         [叙]神亀3年/726年頃筑前守
                    [逝去]天平5年/733年 従五位下筑前守


上記の年譜だけだとわからないが、山於億良が遣唐小録(記録係)に任ぜられた時は、42歳前後と思われるが無位だった。[@「続日本紀」巻二]そして、長安に2年滞在して帰国したことになる。
万葉歌人としての姿は、それよりずっと後の元正天皇退位後の、完璧な老齢期。そうなったのは、おそらく意図した訳でなく、最晩年期に筑前守として赴任した際、大宰師大伴旅人と歌壇活動を始めた結果だろう。
以下2首の歌は、歌人として扱われるようになったので、追加収録されたと考えるべきもの。・・・
於唐 詠歌 [巻一#63]
  いざ子ども 早く日本へ 大伴の
   御津の浜松 待ち恋ひぬらむ
(追和)有間皇子 挽歌 [巻二#145]
  鳥翔成[とりとなり] あり通ひつつ 見らめども
   人こそ知らね 松は知るらむ

山上憶良が謳った題材は様々だが、基本モチーフを老・病・死に設定した歌人というイメージが濃厚である。普通は、宮廷の様子や、心に染みる風景を詠むことに力を注ぎ、そこから外れても、何らかの思いを籠めた作品に仕上げているが、社会派的に批判臭を匂わせた歌が多いのが特徴である。と言うか、恋の歌を忌避し、自然を詠もうとしないという点で、"万葉歌人"としては極めて特異ということ。しかし、年齢から考えて、当然と言えよう。
このため、どうしても寿ぎとはかけ離れてしまう。従って、枕詞が登場しにくそうに思われるが、それなりに使っており、伝統打破を狙っている訳ではなさそう。

巻五に数多くの歌が収録されているが、山上憶良謹上歌で背景についての説明文が付属しているところから見て、すでに口詠みではなく、文読みになっていることがわかる。歌とは後世に伝えるべき文芸作品と考えていることがわかる。これとは全く異なるタイプは、ほぼ辞世の歌と言ってよさそうな、巻六に孤立して収録されている"沈痾時歌"。訪問者が記録した歌だからだ。
  士やも 空しくあるべき 万代に
   語り継ぐべき 名は立てずして
[左注]右一首山上憶良臣沈痾之時 藤原<朝>臣八束使河邊朝臣東人 令問所疾之状 於是憶良臣報語已畢 有須拭涕悲嘆口吟此歌
この歌からすれば、歌人として名を残そうというよりは、官僚として成果をあげることにこそ価値ありと考えていたように思われる。

そこで、小生にはピンときた。太安万侶〜稗田阿礼〜山上憶良の専門性は同類であるとみてのこと。当然ながら、作歌自体に興味があったのではなく、歌謡の文字表記化をどのようにすべきか、それぞれ、頭を悩ましていたということ。
にもかかわらず、意見交換の場がなかったとはとうてい思えない。そう考えれば、山上憶良の歌の素養は「古事記」の元ネタ歌謡の可能性もあろう。

その歌風は、題材からすれば仏教的。有名な歌もまさに仏教一筋と思わせるところがある。・・・
[題詞]思子等歌一首[并序]
 釋迦如来金口正説 等思衆生如羅睺羅
 又説 愛無過子 至極大聖尚有愛子之心 況乎世間蒼生誰不愛子乎

  瓜食めば 子ども思ほゆ
  栗食めば まして偲はゆ
  いづくより 来りしものぞ まなかひに
   もとなかかりて 安寐し寝さぬ

ところが、この歌だけ見ず、俯瞰的に眺めると、仏教的神祇の世界に嵌っているように映る。このことは、用語を神祇に変えただけの、儒教の天子独裁-官僚統治による信仰管理の対立軸としての仏教傾倒姿勢と言うことでは。
父母や妻子への慈しみ的感情が浮き出ている歌だらけだが、表面的には、社会が要請している儒教的国家体制に合わせた性情をベースにして作っているのは明らか。しかし、儒教的かと言えばそうとは言いかねる。そこには仏教観もにじみ出ていることが多いからだ。
太安万侶同様、山上憶良もあくまでも官僚。朝廷の組織運営上、儒教的統制は不可欠だから、これは社会人として当然の姿勢。ところが、そこに個人的感情が絡んでくると、途端に儒教的意識は霧散する。儒教を信仰に持ち込まない訳で、その歯止めが仏教ということになろう。(病苦の日々で、死の予感がよぎる老人が、儒教的道徳の無意味さを感じているだけとも言えなくもないが。)・・・ここらも、両者の思いは同じでは。

尻切れトンボだが、ここらで話を終えよう。

---山上憶良の歌@「万葉集」---
川嶋皇子御作歌 [或云山上臣憶良作] [巻一#34]
於唐 詠歌 [巻一#63]
有間皇子 挽歌 [巻二#145]
罷宴歌 [巻三#337]
日本挽歌 [巻五#794]…"しらぬひ"筑紫国
〃反歌 [巻五#795-799]…"枕付く"妻屋, "あをによし"国内
反惑情歌 [巻五#800]
〃反歌 [巻五#801]
思子等歌 [巻五#802]
〃反歌 [巻五#803-805]
鎮懐石詠歌 [巻五#813]
〃并短歌 [巻五#814]
於大宰府 梅花宴歌 [巻五#818]
鄙歌 868-870]
松浦佐用嬪 詠歌 [巻五#874-875]
書殿餞酒日(倭) [巻五#876-879]
布私懐歌 [巻五#880-882]
為熊凝 述其志歌-敬和歌 [巻五#886-891]@731年…"うちひさす"宮
貧窮問答歌 [巻五#892-893]…"ぬえ鳥の"のどよひ居る
好去好来歌 [巻五#894]…"そらみつ"倭国, "高光る"日の朝廷, "久かたの"天のみ空, "あぢをかし"値嘉崎
〃反歌 [巻五#895-896]
老身重病 経年辛苦 及思児等歌 [巻五#897]…"玉きはる"現, "五月蝿なす"騒く子どもを
〃反歌 [巻五#898-903]…"しつたまき"数
恋男子名古日歌 [巻五#904]…"明星の"明くる朝, "夕星の"夕へ, "三枝の"中, "大船の"思ひ頼む, "玉きはる"命
〃反歌 [巻五#905-906]
沈痾時歌 [巻六#978]
七夕歌 [巻八#1518-1519]
七夕歌 [巻八#1520]…"いなむしろ"川, "天飛ぶや"領布
〃反歌 [巻八#1521-1522]
七夕歌 [巻八#1523-1529]…"玉かぎる"ほのかに, "たらちしや"母, "玉桙の"道
秋野の花 詠歌 [巻八#1537-1538]
山上歌 [巻九#1716]
筑前国志賀白水郎歌 [巻十六#3860-3869]

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