→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2022.1.25] ■■■ [389]南九州王朝の定義を考える ともあれ、高千穂に行宮ではなく、天孫何代かが座した宮が存在したのは確か。ただ、初代天皇が遷都しただけだから、王朝が変わったわけではないと考えるべきではない。九州のどこにも、宮跡とか、威容を誇る御陵が発見されたとの情報は無いからだ。どの比定地でも、存在するのはせいぜいが一般的な墳墓しかなく、「古事記」成立時にすでにこの辺りの話はよくわからなくなっていたと見てよいだろう。 しかし、太安万侶は、大火山と南島との深い関係を示唆する確固とした伝承がある以上、阿蘇山あるいは霧島山と、黒潮に洗われる九州南部の半島辺りに宮が存在していたと考えたと思われる。しかし、住み易い地の先住者を追い出したわけではなく、住み難い地に降臨し、経済力をつけてからその地一帯に君臨したことになろう。 ここことは、《南九州高千穂王朝》が存在したということにほかなるまい。しかし、火山活動で壊滅してしまったことになる。 と言っても、一気に壊滅したのではないから、三々五々移住を進めたに違いない。先発組もあろうし、後発組も。 どうにもならなくなり、最終的には、4群に分かれたのだろう。想像するに、稲氷命は黒潮側に出て事実上全滅し、御毛沼命は瀬戸海側に出て敵対勢力に遭遇し移住余地無しと判断し撤退して自死か。次に、強力な末子防衛の先遣隊として、五瀬命が周到な準備をしてから進出。その跡を王朝嗣子たる若御毛沼命が辿ったということのように思える。📖東征と言うより南九州部族東遷が妥当 (この4柱以外にも、縁者が別途東遷していておかしくなく、大和地区に先駆け勢力や後追い勢力が入っている状況は、自然なことと言えよう。遭遇することになって、熾烈な抗争に発展するか、支配者として迎え入れるかは、ケース・バイ・ケースだろう。) 「古事記」の記述順からすれば、天孫降臨よりずっと古き頃に、すでに九州地区には連合王国が生まれており、その代表は白日別であったようだ。この神名は、普通に考えれば白頭山信仰で知られるアルタイ・ツングース系の太陽・山信仰を意味しており、半島から金属器を取り寄せる北九州の王の役割が大きかったことを物語る。 九州は4面あり(玄海灘域・瀬戸海沿岸・五島列島側・南島黒潮域)、《南九州高千穂王朝》は最後の面に相当することになろう。対外的には、玄海灘域が表に出るものの、地域間の戦闘も度々発生する状況で支配的地位にいた訳ではなく、武力的には"建"勢力が圧倒的と見てよいのでは。 白日別…筑紫國:筑前・筑後 (筑紫は九州全体をさす語彙でもある。) 豊日別…豊國:豊前・豊後 建日向日豊久士比泥別…肥國:肥前・肥後 建日別国…熊襲國:日向・大隅・薩摩 《南九州高千穂王朝》以外の王朝としては、《出雲王朝》を措定してかまわぬだろう。大国主との一般名称が用いられている上に、系譜が明瞭に示されているから、紛うこと無き王朝と言ってよいだろう。・・・ <速須佐之男命> │六世の孫 大国主神 │ 17世神[八嶋士奴美神〜遠津山岬帶神] この王朝は、北九州から越迄、日本海側が勢力基盤であるが、内陸は諏訪湖辺りまで進出していたのだろうが、どこまでが影響圏かは読み取れない。紀州・瀬戸海両岸勢力とも深く係わっていたようだし。 そこらの状況を天照大御神の誓約(勾玉)御子から想定すれば、天之菩卑命が出雲勢力迎合代表であり、熊野久須毘命が紀伊〜四国の黒潮系で、天津日子根命+活津日子根命がその他となるか。これらの神を祖とするのは、天照大御神との関連性を示すためではなく、初代天皇との繋がりが薄いことを語っていると考えた方がよいと思う。 葦原中国の天孫族祖は、あくまでも、天邇岐志国邇岐志天津日高日番能邇邇藝命であり、それ以前の神を祖とするということは、別途降臨ありということになってしまい、ナニガナニヤラのゴチャゴチャな状態と言っているのと同じで、"祖"として天孫続と縁ありとする意味はほとんど無いに等しいのだから。 わかりにくいのは、九州地区だが、番能邇邇藝命-火遠理命という皇統譜直系に対して、傍系の3柱(天火明命・火照命・火須勢理命)がそれぞれの勢力の祖を意味していると考えるのが自然だろう。 火遠理命は南島との婚姻関係があるためその性情で峻別は多少可能だが、すべて火山地区での神の降臨伝承から来ているため、混同されがちだろう。類似伝承を、太安万侶は紐解いて整理したのだと思われるが、宮や御陵の位置まではよくわからなかったのだろう。現行の比定地はこれら4柱のどれかの伝承があることを意味しよう。 ただ、どうあれ、直系によって、《南九州高千穂王朝》が樹立されたと考えるのが、太安万侶流歴史観と言えるのでは。 はっきりしないにも関わらず、どうにでも言えそうな想定をしている訳だが、思い付き的お話や、結論に合わせた筋を作ろうといういう訳ではない。「古事記」全体で考えると王朝論は避けて通れないのである。・・・ 話は突然飛ぶが、素人にとって、大いなる驚きは明治の憲法たる「大日本帝国憲法」の記述。大日本帝国と書かれているが、その国家の範囲についてはなにも規定されていないからだ。領土概念は無いというか、国際法上、戦争等による領土割譲は当然視されていたことを意味し、王朝が樹立されていないと見なされる地域は、無支配の処女地とされ、旗を立てれば領土化できることになる。王朝として認められるか否かで、国家として成り立つかどうかが決まるわけである。義務教育を受けまともに考えているなら、これ自体驚くに値しない内容だが、「古事記」のセンスとは全く異なるのである。 国家樹立は、あくまでも"国生み"。この国の統治者は後から決まるのであるが、その意思決定者は存在するのかいないのかよくわからない。"国譲り"があるところを見ると、力で決まるようにも思えるが、神の詞ありきのような記述もあるので、どう読むかは難しい。 おそらく、太安万侶の国家とは、倭語圏ということになるのだろう。その言葉を主導する力がある勢力の、王権・神権に着目すべきという主張ということになろう。 ●【左御目】 │<誓約(勾玉)> ├┬┬┬┐ ⓿【1】 │⓿【2】 │┼⓿【3】 │┼┼⓿【4】 │┼┼┼⓿【5】 └┬⓿ ┼├┐ ┼❶【1】 ┼│ <宮内庁治定地@国史> ┼│ [邇邇芸命陵]可愛山陵@延岡(祖母傾) ┼│ [御陵伝承地]@宮崎北川俵野可愛 ┼│ [御陵墓参考地]@西都西都原 ┼│❶【2】 ┼└┬❶ ┼┼├┬┐ ┼┼❷【1】 ┼┼┼❷【2】 ┼┼┼┼❷【3】 ┼┼┼┼│ ┼┼┼┼│ 日子穗穗手見命者坐高千穗宮 伍佰捌拾歲 ┼┼┼┼│ 御陵者★在其高千穗山之西也 ┼┼┼┼│ <御陵比定地> ┼┼┼┼│ 国見山@肝付(大隅半島東部) ┼┼┼┼│ 野間岳@南さつま(薩摩半島南西部) ┼┼┼┼│ 高屋神社@宮崎村角 ┼┼┼┼│ <宮内庁治定地@国史>[天津日高彦火火出見尊陵] ┼┼┼┼│ 高屋山上陵(円丘墳)@霧島溝辺麓菅ノ口 ┼┼┼┼└┬❷ ┼┼┼┼┼❸ ┼┼┼┼┼│ <宮内庁治定地@国史> ┼┼┼┼┼│[天津日高彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊陵]吾平山上陵@鹿屋吾平上名 ┼┼┼┼┼│[御陵伝承地]@日南速日峯山上(鵜戸神宮背後) ┼┼┼┼┼└┬❸ ┼┼┼┼┼┼├┬┬┐ ┼┼┼┼┼┼❹【1】 ┼┼┼┼┼┼┼❹【2】 ┼┼┼┼┼┼┼┼❹【3】 ┼┼┼┼┼┼┼┼┼❹【4】 ┼┼┼┼┼┼┼┼┼ (C) 2022 RandDManagement.com →HOME |