→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2022.1.27] ■■■ [391]"和魂"の表象は1に歌謡 「今昔物語集」に感化されたせいで、「古事記」でのこうした指摘に気付いたのである。 それを考えると、要説明なので、少々補足しておこう。 "和魂洋才"は、実は外れではなく、正解。"和"("倭"の替え文字)を用いた四文字熟語にしているからだ。"日本"にしてあっても同じことだが、これは中華帝国を意識して創作した言葉であり、あくまでもグローバル覇権国設定の標準に従った交流必須な環境下に置かれた際の、本朝の姿勢の特徴を打ち出したものだからだ。 つまり、震旦は"無魂外才"を基本姿勢としていることになる。帝国官僚は、外の新しい知恵(富貴の源泉)を常に探索し、獲得・試行・獲得を旨とし、官僚機構内での熾烈な権力闘争に精を出しているのである。成功すれば、知恵の独占化を図り帝国強化に邁進することになる。知恵の源泉は帝国外なのである。帝国内での官僚統制を外れた自由な動きはご法度としなければ、帝国たりえないから致し方ない。(「酉陽雑俎」の著者もその辺りが分かっていたようで、仏教だけでなく、文字、棋、音楽、等々も渡来文化と考えていたようだ。西安や洛陽のすばらしさは、インターナショナルに通用する知恵が流入する拠点であり、そのインフラを形成しているのが大乗仏教と考えていたようだ。) 太安万侶がそこまで考えていたかはわからぬが、官位も記載できぬ稗田阿礼と二人三脚で成書化したと高らかに宣言しているところを見ると、中華帝国文化との本質的な違いを意識していた可能性は高かろう。 「今昔物語集」的な三国観で言えば、本朝の特徴とは歌謡社会であること。詔だろうが、皇統譜であろうが、儀式に於いての詞同様に歌謡として発せられて初めて公式な言葉とされる。発声の行儀は、場によって様々であり、舞や演奏が付随する場合もあるが、あくまでも主体は歌謡。 この連綿と受け継がれて来た慣習が、ついにグローバル標準に合わせる必要性から消えてなくなることに。 ・・・だからこその「古事記」であろう。 震旦には、そのような歌謡の時代が存在していたとの証拠があるわけではない。示唆する書物があるが、そこからは声としての歌謡という異質な世界を読み取ることはできない。すべては文字読みでしかないからだ。文字伝達のための発声標準音が官僚統制で厳格に規定されている社会では、歌謡は成り立たない。中華帝国での、漢詩を吟ずる行為とは、歌謡とは似て非なるものと考えてもよいのでは。 (「古事記」では、葦原中国は八洲から始まり、すべてが島国である。その様な環境から、婚姻を発露として定型的な歌が生まれたとされており、それが初王朝樹立歌謡の核である。) ちなみに天竺は歌謡は極めて重要であるが、それはあくまでも叙事詩の"筋"あっての話。間違いなく伝承させるための、厳格な口誦行儀が求められたということ。文字は備忘録用。 尚、「古事記」は仏教について何も触れていないから、太安万侶は天竺については何も知らなかったと考えるべきではない。漢字を表"音"文字化して使用しているが、これは普通のレベルのインテリの能力ではできない。すでに倭語の音素(50音のように)分解能力があったことになるし、「萬葉集」と異なり整然と当て嵌めているから、倭語の助詞文法ルールを理解していたとしか思えないからだ。震旦から帰国した仏僧からサンスクリット学を学んでいた可能性が高い。 (C) 2022 RandDManagement.com →HOME |