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■■■ 「古事記」解釈 [2022.2.26] ■■■
[421]「古事記」が示す大物主神の独自な性情
多くの場合、大物主神とは三輪山に鎮座する神で、大国主神の異名とされている。ところが、「古事記」の記載はそれとは異なり。全く別な神としか思えない書き方になっている。出雲にも海から渡来してきて、大国主命の統治を助ける役割を担ったと、はっきり書いてあるからだ。
大物主神は初代天応の太后の父という輝かしい位置にあるが、出雲の国家統治を支えて来た神でもあるとされており、両者が土井いつ神というのは、倭に於いては二位一体観念が通用していたことになってしまう。

しかしながら、どうしてこうなるのかはほぼ自明である。

国津神の神学解釈(和魂@「出雲国造神賀詞」)で同一認定されたということ。あくまでも、大国主命/大己貴神おおなむちのかみが国津神のまとめ役であるから、両者が全く別な神であると見なせば、大物主神の出自が問われることになり、どうにも説明のしようがなくなるからだ。
「今昔物語集」的な感覚からすれば、大物主神とは"物の怪(精霊)"の医大な大親分的神を指す用語としか思われず、わかりにくいことこの上なし。

①出雲に海から光を放って渡来(海照[アマテラス])
  於是 大國主~愁而 告吾獨何能得作此國
  孰~ 與吾 能相作此國 耶
  是時 有
光海依來之神
  其神言:
  「能治我前者 吾能共與相作成 若不然者 國難成」
  爾 大國主神曰:
  「然者治奉之状奈何」
  答言:
  「吾者 伊都岐奉于
倭之青垣東山上
   此者
坐御諸山上神也」
 出雲では、光って海を渡るのは蛇かも。
 (肥河の水霊"ナーガ"📖檳榔之長穗宮の比定地)・・・
  一宿婚肥長比賣 故竊伺其美人者 蛇也
  即見畏遁逃
  爾 其肥長比賣患光海原 自船追來


②初代天皇は、すでに娶っている妃をさしおいて、即位環境を整えるべく、大后として大物主神の女を選ぶ。
  然更求爲大后之美人時
  大久米命曰:
  「此間有媛女是謂~御子
   其所以謂~御子者
   三嶋湟咋之女 名勢夜陀多良比賣 其容姿麗美
   故
美和之大物主~見感 而
   其美人爲大便之時
   化丹塗矢自其爲大便之溝流下 突其美人之"富登"
   爾 其美人驚 而 立走"伊須須岐伎"
   乃 將來其矢置於床邊忽成麗壯夫
   即 娶其美人生子
   名謂富登多多良伊須須岐比賣命亦名謂比賣多多良伊須氣余理比賣
   <是者惡其富登云事後改名者也>
   故 是以謂~御子也」


③さらに、初国知らしし天皇は人々が死に絶えかねない状況に直面し、その原因が大物主の祟りであるから、鎮めるために神主を置き祭祀を執り行うことになる。
  此天皇之御世 伇病多起人民死爲盡
  爾 天皇愁歎而坐~牀之夜
大物主大~顯於御夢曰:
  「是者我之御心故
   以意富多多泥古 而 令祭我御前者 ~氣不起國安平」
  是以驛使班于四方求謂意富多多泥古人之時
  於河内之美努村見得其人貢進
  爾 天皇問賜之:
  「汝者誰子也」
  答曰:
  「僕者
大物主大~娶陶津耳命之女活玉依毘賣生子
   名櫛御方命之子 飯肩巣見命之子 建甕槌命之子
   僕 意富多多泥古 白」
  於是天皇大歡 以詔之天下平人民榮
  即
  「以意富多多泥古命爲~主 而
   於
御諸山 拜祭意富美和之大~前・・・
世の中平安を取り戻したということで、ここで話は終わってもよさそうに思うが、陶津耳命−活玉依毘売−櫛御方命−飯肩巣見命−建甕槌命−意富多多根古の活玉依毘売の妊娠譚が三輪の地名由来話として収録されている。神が蛇体であることを示唆しているように映る。・・・
  是以其父母欲知其人
  誨其女曰 以赤土散床前以"閇蘇"
  紡麻貫針刺其衣襴
  故如教而旦時見者 所著針麻者自戸之鉤穴控通而出
  唯遺麻者三勾耳
  爾即知自鉤穴出之状而從糸尋行者
  至
美和山而留~社
  故其~子
  故因其
麻之三勾遺而名其地謂美和也

〇「古事記」には、有名な箸墓伝説(三輪山の神の神婚譚)は収録されていない。

素人のフツーの発送なら、三輪山とは奈良盆地の当該地域での太陽信仰の地であり、農歴を支持してくれる神が座す地ということで、それに統治者の信仰を被せる取り組みがなされたということになるが、どうもそこらを曖昧にしたママで祭祀を行っていたようにも思える。
そんな風に考えるのは、「万葉集」所収の三輪山の歌が不可思議だから。作者が誰と記載しているのかはなはだわかりにくい異例の題詞である上に、反歌は近江宮遷都を強行した際の御製のようだし、一体、どのようなシーンを意味しているのか掴み難く、解釈は一筋縄ではいかない。
しかも、近江国下行は通常表現だが、この場合は近江宮行だから、上ることになる筈であり、恣意的に言葉を替えている。実に、解せぬし。

三輪山との別れには、単なる抒情的なもの以上の感慨がありそうだが、残念ながらその気分を想像することができない。・・・
額田王下近江國時[作]歌井戸王即和歌[「万葉集」巻一#17,18]
味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈 い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや
〃反歌
三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや
[左注]右二首歌山上憶良大夫類聚歌林曰 遷都近江國時 御覧三輪山御歌焉 日本書紀曰 六年丙寅春三月辛酉朔己卯遷都于近江
単純に解釈するなら、"美和大神の正体を見てしまい男女は別れざるを得なくなってしまったが、今、こうして三輪山を見て別れることにしようと思ったが、見ることができぬように雲で隠されてしまった。"ということになろうか。
出雲的には、雲は吉兆でもあり、怒る神の表彰でもあるから、どいうとらえるかは人による。天皇の遷都強行にどう思うかは様々だったろうから、それでよいということだろうか。

もちろん、この他にも。・・・
十市皇女薨時高市皇子尊御作歌三首[「万葉集」巻二#157]
神(三輪山)の 山辺真麻木綿 短か木綿 かくのみからに 長くと思ひき
[左注]紀曰七年<戊>寅夏四月丁亥朔癸巳十市皇女卒然病發薨於宮中
丹波大女娘子 歌三首[「万葉集」巻四#712]
味酒を 三輪の祝が 忌ふ杉 手触れし罪か 君に逢ひ難き
詠山[「万葉集」巻七#1095]
三諸つく 三輪山見れば 隠口の 泊瀬の桧原 思ほゆるかも
長屋王歌一首[「万葉集」巻八#1517]
味酒 三輪のはふりの 山照らす 秋の黄葉の 散らまく惜しも
寄物陳思[「万葉集」巻十三#3014]
神(三輪山)の 山下響み 行く水の 水脈し絶えずは 後も我が妻
[「万葉集」巻十三#3222]
三諸は 人の守る山 本辺は 馬酔木花咲き 末辺は 椿花咲く 心妙し/うらぐはし(浦妙)山ぞ 泣く兒守る山

出雲に渡来した神が"倭之青垣東山"と呼んでいるが、倭建命も、辞世的な"大和し麗し"歌で、"青垣 山籠れる"としており、この山は別格だったようである。

--- ついでに笑い話 ---
太安万侶はこの話で"三勾⇒美和"という小細工をしている。現代人でも、ここは三輪の地名由来だから、話の筋からして糸束が3把であると勝手に解釈してしまうが、勾という文字にはそのような意味の用法は無いし、大陸で"ワ"と発音されたことは無い。
  ≪勾≫
  [呉音]
  [漢音]コウ
  [訓]かぎ ま-がる まがり
この文字は、ここでは、以下の"なわ"を意味して使ってみた、とのお遊び。
  ≪綯[=糹+匋(勹+缶)]≫
  [音]トウ/ダウ
  [訓]な-う なわ よ-る
"綯"は、土器生産に用いる糸を指す。だからこそ、麻糸に赤土が絡んでくるのである。読者の知的レベルなら、何故に土が必要かという疑問が湧くから、この文字の代替であることにすぐ気付くだろうという仕掛け。言うまでもないが、そこは陶津耳命が差配する地なのだ。間違いなく祭祀用土器生産の氏族だろうが、素焼きカワラケではなく、高度な技術を要する須恵器ではなかろうか。

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