→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2022.3.2] ■■■ [425][安万侶サロン]奈良の語源が読みとれる
奈良公園(東大寺+興福寺+春日大社) 高畑(新薬師寺) ならまち(元興寺)&きたまち 平城宮+西大寺 西の京(唐招提寺+薬師寺) 秋篠寺 国史には、8代孝元天皇の第1皇子 大彦命が、10代崇神天皇の命で反乱鎮圧に出兵する際に那羅山に登り、 一番人気の解釈は、これを幾分踏まえて、山腹の傾斜の比較的緩やかなる地形名称としての" しかしながら、[安万侶サロン]的に検討すると、"楢"説を支持することになろう。木+(酋)という文字が意味するところがあってこそのナラと考えるからである。(ただ、両者の音は同じではなさそうだが。)一般地名的命名なら、全国津々浦々にあってしかるべきだろう。One of them的名称が特別な地域名となったという理屈が通るのは大御所ナラでは。 そういう意味では、"那羅"であるとはとても思えないものの、その方が本質をとらえていると言えよう。 太安万侶はこの"那羅"話を知っていたに違いないが、収載する気にはならなかったのだと思う。 しかし、ナラという地名を知らん顔している訳ではない。倭国の代表的樹木の林がある地域に触れずに済ます道理がないからだ。 大山守命之骨者葬于"那良"山也 ・・・サラリと記載しているが、皇子の埋葬地を示すということは、特別重要なメッセージが籠められているので、じっくり考えておくべき箇所である。 要するに、奈良から木津川を下る大山守命の軍勢を、大阪湾から淀川を遡る大雀命と、宇治川を下る宇遅能和紀郎子が挟み撃ちにしたようなもの。おそらく、以下の地名は木津川分流点。 ≪大山守命≫ 於是伏隱河邊之兵 彼廂此廂 一時共興 矢刺而流 故到"訶和羅"之前 而 沈入 故以鉤探其沈處者 繋其衣中甲 而 訶和羅鳴 故號其地謂【訶和羅前】也 ⓯品陀和気命/大鞆和気命 └┬△高木之入日売命(品陀真若王の娘1) │├〇額田大中日子命 │├●大山守命 │├〇伊奢之真若命 │├△妹大原郎女 │└△高目郎女 └┬△中日売命(品陀真若王の娘2) │├△木之荒田郎女 │├⓰大雀命 │└〇根鳥命 └┬△弟日売命(品陀真若王の娘3) │├△阿倍郎女 │├△阿具知能三腹郎女 │├△木之菟野郎女 │└△三野郎女 └┬△宮主矢河枝比売(丸邇比布礼能意富美の娘) │├●宇遅能和紀郎子…既指定皇位継承者 │├△八田若郎女 │└△女鳥王 └┬△息長真若中比売(咋俣長日子王の娘) │└〇若沼毛二俣王 └┬△糸井比売(桜井田部連の祖 嶋垂根の娘) ┼└〇速総別命 ・・・大山守命は"那羅"山で足を踏み鳴らして出陣したものの敗死したことになる。 その結果、皇統的にはなんら無縁な存在と化すのだから、どのように葬ったかはどうでもよい話だと思うが、そうはならないのは特別な地だから。従って、比定地は平城山の大型古墳とすべきであろう。・・・なんの論証もできないが、ウワナベ古墳かも。 ●佐紀 五社神276m▲▲▲=狹城楯列陵◇[14]皇后🈜 ウワナベ265m▲△🈭 市庭250m▲△◇51🈭 佐紀石塚山220m▲△=沙紀之多他那美陵◇13🈜 ヒシアゲ218m▲=◇[16]皇后磐之媛陵🈭 佐紀陵山208m=沙紀之寺間陵◇[11]天皇妃日葉酢媛命▲△🈜 小那辺204m▲△🈭 佐紀高塚127m 神明野114m 塩塚109m 佐紀瓢箪山96m ○佐紀遠南方孤立(大和西大寺駅南の尼ケ辻駅) 宝来山226m▲△=菅原之御立野中陵◇11🈜 〇現奈良 伊邪河之坂上陵◇9 〇若草山山頂 鶯塚103m 〇高畑 吉備塚/[伝]真備墓20m 比定地はどうあれ、この地は平城京から北へ向かう楢林の道沿いの筈。奈良盆地こそ倭国の都たるべしという観念を貫いていることを示すためのモニュメントでもあろう。以降、大山守命がそこから護ってくれているということで、都をナラと呼ぶようになったのではあるまいか。 従って、ナラの漢字表記は、平仮名の標準表記たる"奈"と、太安万侶も使った好字の"良"とするのが、適当なのは言うまでもない。 (C) 2022 RandDManagement.com →HOME |