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■■■ 「古事記」解釈 [2022.3.3] ■■■
[426][安万侶サロン]佐紀路-佐保路の意味
安万侶サロン的に地名譚談笑するとしたら、題材は佐紀路-佐保路だろう。地名として知られているものの由来はほとんどわかっていないからだ。

地名としてはとてつもなく古いが、「古事記」成立後の平城京造成の状況を踏まえないと面白い議論にならないので、錯綜しているように映るが、太安万侶が仏教に触れない編纂方針を採用してしまったので致し方ない。

この道だが、要するに東大寺転害門を東の起点として、2つの路が繋がる箇所が法華寺(光明皇后開基@745年)で、西の終点が西大寺ということになる。平城京の視点からすれば、一条ということになり、なんとなく尊さを感じさせる道筋ということになろう。(「古事記」成立は712年であり、この道筋は後世に出来上がったと云うより、この道が一条となるよう、都が設計されたと考えた方がよさそう。)

そこから付会的に由緒譚につなげるのが、よくある手である。この場合、サホをそのように設定するのは容易である。つまり、サは美化の接頭語(小/狭)で、ホは秀とみなし、すぐれた場所を意味する美称と解釈することになる。この場合、サホの大本は河川名とするのが無難だ。源流が春日山/芳山ならいかにもありえそうとなるからだ。
それは決して牽強とは言えない。極く自然な言い回しとの主張に反論できる訳がないからだ。・・・
  春日[はるひ]神栖(住)処[かすが]
   9代若倭根子日子大毘毘命の宮は奈良の春日之伊邪河で、御陵は伊邪河之坂上。
要するに昔からの言い習わしがあり、仏僧もその言い方をママ受け継いだことになろう。文字を使用していなかった時代の呼称であるが、意味に沿って文字化すればこうなろう。・・・
    神栖処…この山を意味の当て字で春日と記載することに。
     …清らかな水が流れ出ていた。
    小秀川…この川を佐保/狭裒/匝布と表記した。
当然ながら、そこら辺りは平城京時代に御陵好適地化する。
   佐保山南陵…聖武天皇
   佐保山西陵…元正天皇・天武天皇夫人藤原宮子
   佐保山東陵…元明天皇・光明皇后


もともとこの辺りは、春日信仰の地だったようで、一大勢力が差配していたのは間違いない。ただ、太安万侶式表記は、佐保ではなく沙本だが。・・・
天皇暗殺未遂譚として有名な沙本毘賣/佐波遅比売命(伊久米伊理毘古伊佐知命皇后)・沙本毘古の兄妹は、日子坐王(若倭根子日子大毘毘命@奈良の春日之伊邪河宮の皇子)と沙本之大闇見戸売(春日建国勝戸売の娘)の子。
天皇は夢で謀反に気付くのだが、その内容は"【沙本】方暴雨零來急沾吾面"と、"錦色小蛇纒繞我頸"である。

そして、この川沿いの、楢林のなだらかな丘陵が、ナラ山/那良山/奈良山/平城山/乃楽山なのである。
この丘陵の西側端を一般地形名の埼と呼んでもおかしくなかろう。佐保に合わせた文字表記にすれば、佐キだろうし、それを無視すれば狭城/沙紀となったりするだけのこと。
要するにナラ山の西部をサキ丘陵、東部をサホ丘陵と呼ぶのである。
・・・こんな解釈では、余りに面白味がなかろう。

多少想像が入るが、サホの地はおそらくインテリが住む地になり、サキは御苑的に使われたりしたと思われる。「古事記」成立の頃は、仏僧を初めとする留学者や、渡来人が多かった筈だが、家の都合もあるから住居地はバラバラになりがち。しかし、家とは無縁な渡来のインテリ層は佐保地域をあてがわれた可能性があろう。そうでなければ東大寺でのインターナショナルな祭祀などとてもできる訳が無いと考えるからだ。

ここで突然飛躍するのだが、当時のインテリが一番好んだ渡来人を考えると、この地、サホの名前に合点がいく。
それが、ソグド人だとすれば。

もちろん、来倭の証拠はなにもない。「酉陽雑俎」からすると、ソグド/西域文化は長安貴族階層には大人気だったのは間違いない。従って、大和国のインテリに請われて来日した可能性はあろうというに過ぎない。(文献的には、初来日ペルシア人は736年遣唐使船乗船の李密翳。ソグド人はよくわからない。)
・・・長安ではソグド商人は成功を収めており、知的レベルが高く仏典にも詳しい上に、エンタテインメントとしての歌舞音曲に熟達しており、インターナショナルな世界を好むインテリには特に魅力的な人々だったことがわかる。📖ソグド商人@「酉陽雑俎」の面白さ
そのソグド人だが、官人として重用されたようで、職名は薩寶/薩甫/薩保。ペルシア国教ゾロアスター/祆教の管理者であるから、ペルシア人代理か。
(祆教は儒教の宗族第一主義を否定し、超近親婚を讃嘆するので、中華帝国では禁教扱いするしかない。)

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