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■■■ 「古事記」解釈 [2022.3.11] ■■■
[434][安万侶サロン]大御葬歌所収の意味
「古事記」所収の、「大御葬[おほみはふり]の歌」は、現代に於いても斂葬の儀で歌われる。次の様な式次第で。・・・
 葬場殿の儀
  大御葬歌
  奠饌幣
  御誄
  拝礼
 陵所の儀

公的に使われるようになった経緯は図りかねるところがあると言いたいところだが、なんとなく分かる気もする。そこらは、和歌をどう捉えるかにかかってくるから、少々、考えてみたい。

と云うのは、現代人からすれば、歌そのものが表現している内容が、葬儀に合うとは思えないからだ。ところが、歌われる背景を描く散文を読むと、これらの歌で描かれている情景が、古代葬儀における行儀ではなかろうかと、推察できる。

太安万侶は、ある意味、言語学者でもあるから、和歌の表現方法をよく解っていた筈。そこで、どうしても、この歌を収録したかったのでは。この歌が、表現方法の本質を示すという点で決定的に重要だからだ。・・・
   📖中巻の倭建命関連所収歌15首検討
<歌竟即崩
 爾 貢上驛使 於是坐倭后等 及 御子等 諸 下到 而
 作御陵 即匍匐廻其地之"那豆岐田" 而 哭爲>

水漬[なづき]の 田の稲柄[いながら][=稈]
稲柄に 這ひ[もとほ]ろふ 野老葛[ところづら][=薢葛]
<於是化八尋白智鳥 翔天 而 向濱飛行
 爾 其后及御子等 於其小竹之苅杙 雖足䠊破 忘其痛以哭追 此時>

浅小竹[あさじ]の原 腰[なづ][=泥]虚空[そら]は行かず 足よ行くな
<入其海鹽 而 "那豆美"行時>
海処[うみ]が行けば 腰難む 大河原の植ゑ草 海処は猶予[いさよ]
<飛居其磯之時>
[波麻]つ千鳥[知登理] 濱よは行かず 磯[伊蘇]伝ふ

すぐにわかるのは、御葬歌であるとわかるのは、あくまでも説明の方である。「万葉集」で言えば"題詞"が歌の鑑賞方法を指定していることになる。つまり、死者哀悼の内容だから挽歌に分類されたのではなく、当該歌を挽歌と解釈しようとの編纂者の"美"意識で挽歌になっているということ。

つまり、極言すれば、日本の歌とは、出自が労働歌や風景抒情歌であっても、挽歌として鑑賞することも可能であり、そんな"見立て"のセンスを打ち出すエスプリ感が賞賛されることになる。おそらく、"生で剥き出し"のママの感情表現は下卑たものとされていたのだと思われる。その様な感情を表に出さない技巧こそが、哀悼の情感を一層深めることになるのだろう。

上記で言えば、古代の葬儀に於ける哀悼感情発露の、慟哭や匍匐廻といった仕草は歌のなかに凝縮されたことになる。
例えば、1首目は、稲作田圃に薢葛が生えるという場違いな描写となっており、一見、どうでもよさそうな風景描写歌に映るものの、題詞的説明があるから、それぞれが暗喩的機能を果たしていることがわかる。そうでなければ、ほとんど理解不能の内容なのだから。
御陵造成の詔も出されず、親族や類縁で行う葬儀で、皆、感極まれり、は歌の言葉そのものからは自明ではないからこそ意義がある訳だ。従って、皆が共通の情緒に浸っている場でなければ、この歌を詠む意味は無い。

それを踏まえると、太安万侶観の凄さが、ここにも凝縮されていると言ってよいだろう。
この歌は、朝廷が認める"公的"な御葬歌では無いとはっきりと書いておきながら、実は、大御葬儀の歌として用いられていることを"暴露"しているからだ。

当然ながら、国史編纂者にとっては、削除すべしとなろうが、太安万侶はそれに対抗して書いている訳ではないと思う。
この歌が倭人の信仰の根底に触れるものであることを指摘していると考えるべきだ。おそらく、死者の霊が常世の国に飛んで行くのだろうが、現世のしがらみも残しながら、そう簡単に飛翔して行ける訳ではなく、親族はその苦闘を共有するのである。もちろんその中には、皇位を嗣ぐこともかなわず、尾張勢力からも見放され、中央勢力側に敗れ去った無念さも含まれることになろう。

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